1─11 2024年 「私なんか」を壊してくれた人
2024年
その日の放課後、夕陽に染まる帰り道を、二人は並んで歩いていた。
西の空をあかあかと染め上げるグラデーションは、まるで今日の昼間に校内で巻き起こった大騒動の余熱をそのまま映し出しているかのようだった。アスファルトの上には、背丈の違う二人の影がどこまでも長く、頼りなげに伸びている。
紡の胸のうちは、先ほどからずっと嵐のような不安に支配されていた。昼休みのあの、思い出すだけでも心臓が縮み上がるような大立ち回りのせいだ。自分を庇って、望がクラスの、中心人物であるグループを相手に真っ向から啖呵を切ったのだ。あの瞬間は必死だったし、望の言葉に救われもしたが、冷静になった今、恐ろしい現実がじわじわと押し寄せてきている。
(望ちゃんのクラスでも、今頃何か言われているんじゃないのかな……。私のせいで、望ちゃんまでハブられたり、陰口を叩かれたりしたらどうしよう……)
気が気ではない紡は、何度も隣を歩く少女の横顔を盗み見ては、小さなため息を繰り返していた。学校という閉鎖的な空間において、一度貼られた「厄介者」のレッテルは、驚くほど簡単に周囲へと伝染していく。紡自身がそれを誰よりも痛いほど知っていたからこそ、大切な人を巻き込んでしまったという罪悪感が、じくじくと胸を刺す。
しかし、当の望はというと、そんな紡の深刻な葛藤などどこ吹く風といった様子だった。
「ふん、ふふん、ふーんだ」
使い古されたスクールバッグの持ち手をしっかりと握り、振り子のようにぶんぶんと派手に振り回しながら、何でもない風に暢気な鼻歌を歌っている。歩調も軽やかで、時折跳ねるようにステップを踏みさえする。その背中からは、先ほどの修羅場による疲弊も、今後の学校生活への不安も、これっぽっちも感じられなかった。
そのあまりの温度差に、紡は戸惑いを隠せない。望の細い肩にかかる夕陽の光を見つめながら、紡は胸の奥底でずっと澱のように溜まっていた、そして今日の出来事でさらに膨れ上がった大きな疑問を、ついに言葉として形にすることに決めた。
「ねえ、望ちゃん」
絞り出すような声だった。夕暮れの街の、遠くを走る車の羽音にかき消されてしまいそうなほど小さな、けれど確かな意志を孕んだ声。
望はバッグを振る手をぴたりと止め、首を傾げて振り返った。その表情は、夕陽のオレンジ色に照らされて、いつも以上に柔らかく、そして無邪気に見えた。
「ん? なーに、紡ちゃん?」
紡は一度、自分の足元に視線を落とした。コンクリートのひび割れを見つめながら、拳をぎゅっと握りしめる。これを言えば、せっかくの優しい関係が壊れてしまうかもしれないという恐怖があった。でも、聞かずにはいられなかった。これ以上、彼女の優しさに甘え続けることは、自分の都合の良い綺麗事で彼女を縛り付けているだけのような気がしたからだ。
「なんで、望ちゃんは私なんかに……そんなに優しくしてくれるの?」
ずっと、ずっと聞きたかった問いだった。
学校中が自分を無視し、まるで初めから存在していないかのように扱う中で、望だけが突如として現れ、真っ直ぐに手を差し伸べてくれた。それだけではない。学校中で完全に浮いてしまっている自分に関われば、望自身の立場だって悪くなるのは火を見るより明らかなのだ。クラスの女子グループからの冷ややかな視線、教室の隅で交わされるひそひそ話、それらが全て、自分と一緒にいるという理由だけで望にも向けられるかもしれない。
それなのに、望はいつも、まるで自分の命を懸けているかのような、強い、真っ直ぐな顔をして紡を守ろうとしてくれる。昼間の大立ち回りだってそうだった。傷つけられそうになる紡の前に立ちはだかり、鋭い眼差しで相手を睨み据えたあの姿は、到底ただの「クラスメイト」や「気の合う知り合い」の域を超えていた。どうしてそこまでしてくれるのか。自分には、それほどまでに他人に命を懸けてもらえるような価値など、ひとかけらもないはずなのに。
紡の問いかけを聞いた望は、歩みを完全に止めた。
夕暮れの風が、望の短い髪をふわりと揺らす。望はしばらく無言のまま紡を見つめていたが、やがて呆れたように、けれどどこか愛おしそうに小さく笑った。その笑みには、怒りも失望もなく、ただただ紡の不器用さを包み込むような温かさだけがあった。
「もー、紡ちゃんはまたそんなこと言ってる。前にも言ったでしょ? この世界は、あんな奴らばっかりじゃないって。誰かを虐めたり、見下したりして喜んでるような狭い世界が全てじゃないんだよ」
望は小さく息を吐き出し、遠くの空を見上げた。その瞳が、過去の懐かしい記憶を辿るように、ほんの少しだけ細められる。
「それにさ、私のお父さん、いつも私に言ってたんだよね。『人はみんな平等だ』って。偉い人も、そうじゃない人も、勉強ができる人も、できない人も、みんな同じ立場の人間なんだよって。誰かが誰かを踏みつけていい理由なんて、この世のどこを探しても存在しないんだってさ」
望の父親の話を聞いたのは、これが初めてだった。すでに亡くなっているというその父親の教えが、今の望の強さと優しさの根幹を作っているのだと、紡は直感的に理解した。望の言葉には、ただの綺麗事ではない、血の通った重みがあった。
望は視線を空から紡へと戻すと、一歩、力強く紡に向かって近づいた。その距離は、お互いの息遣いが感じられるほどに近い。望は、その大きくて丸い、少しの曇りもない瞳で、紡の怯えるような瞳を真っ直ぐに見つめた。まるで、紡の心の奥底に潜む「私なんか」という怪物を、その視線だけで射すくめて消し去ってしまおうとするかのように。
「さっきから紡ちゃんは『私なんか』って言うけどさ、私は『古山紡』だから一緒にいるんだよ。他の誰でもない、紡ちゃんが良いから仲良くしてるの」
その言葉が、紡の耳から脳内へ、そして胸の最も深いところへと、ゆっくりと染み渡っていく。
「紡ちゃんが優しいこと、誰よりも傷ついている人の痛みがわかること、一生懸命に毎日を生きてること、私はちゃんと知ってる。だからさ、他の奴らが何を言おうと、紡ちゃんが自分をどう思おうと、私は紡ちゃん自身が大好きで、大切だから隣にいるの。だから、もっと自分に自信持って!」
心の一番柔らかい、これまでに何度も傷つけられ、誰にも触れさせまいと硬い殻で閉じこもっていた部分を、温かい手でぎゅっと包み込まれたような、そんな激しい衝撃だった。
それは、これまで紡が浴びてきたどんな悪意よりも強く、圧倒的な質量を持って彼女の心を揺さぶった。全身の血が急激に熱くなるのを感じると同時に、視界がみるみるうちに歪んでいく。胸の奥からせり上がってくる熱い感情を、もう抑えることはできなかった。
気づけば、紡は望の小さな身体を、壊れ物を扱うかのように、けれど決して離さないという強い意志を込めて、強く抱きしめていた。
「わっ、紡ちゃん!?」
突然のことに驚いた望が、短い悲鳴のような声を上げる。望の身体は細く、紡よりも一回りほど小さかった。こんなに小さな身体のどこに、あんなにも強くて優しいエネルギーが隠されているのだろうと、紡は抱きしめながら不思議に思った。
「……友達って、呼んでもいい?」
紡の口から漏れたのは、情けないほどに掠れ、涙で激しく震える声だった。
自分のような人間が、こんなにも眩しくて、正しくて、温かい彼女の「友達」を名乗っても良いのだろうか。その許しを乞うような、あまりにも臆病な質問。
望は一瞬、本当に驚いたようにその身体をピシッと硬くした。腕の中に伝わるその硬直に、紡は一瞬「やってしまった」と後悔し、身体を離そうとした。しかし、それよりも早く、望の身体からふっと力が抜けた。
そして、すぐにクスクスと、鈴を転がすような愛らしい声で笑いながら、望は自分の両腕を紡の背中に回した。そして、あやすようにポンポンと、優しくリズミカルに叩き始めた。
「何言ってるの、前からそうでしょ。そんなの、いちいち聞かなくてもいいんだよ」
望のその言葉は、紡がこれまでの人生で求めていた、何よりも欲しかった決定的な答えだった。形式的な許可なんて必要ない。私たちはもう、とっくの昔に出会ったその時から友達なんだよと、望の背中を叩く手の温もりが雄弁に物語っていた。
紡は望の肩に顔を埋めたまま、嬉しくて、ありがたくて、溢れ出る涙を止めることもできずに、何度も何度も激しく頷いた。望の制服の肩口が、紡の涙でみるみるうちに濃い色に染まっていく。けれど、望はそれを嫌がる素振りなど微塵も見せず、ただ静かに、紡の気が済むまで抱きしめ返してくれていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。夕陽はさらに高度を下げ、街路樹の影をいっそう長く伸ばしていた。ようやく涙が引き、呼吸が整ってきた紡は、ゆっくりと望の身体から離れた。赤くなった目で鼻をすすりながら、気恥ずかしさに頬を染める紡を見て、望はいたずらっぽく微笑んでいる。
涙を拭った紡の胸の中には、先ほどまでのジクジクとした不安や罪悪感は消え失せていた。代わりに、今までに感じたことのないような、新しくて力強い勇気がふつふつと湧き上がっているのを感じていた。
この大切な友達に、自分の全てを知ってほしい。そして、自分がどれほど素晴らしい人と出会えたのかを、自分の世界で一番大切な人にも伝えたい。その思いが、紡の背中を強く押した。
「ねえ、望ちゃん。私、望ちゃんに会ってほしい人がいるの」
まだ少し鼻声のまま、けれど真っ直ぐに望の目を見て、紡は言った。
「え? 誰?」
望は興味津々といった様子で、目をきらきらと輝かせながら身を乗り出してきた。その純粋な反応が、紡の心をさらに軽くする。
「私のお母さん。病院にいるんだけど、望ちゃんの話、ちゃんとお母さんにしたい。私がこんなに素敵な友達に出会えたこと、お母さんにも喜んでほしいから」
紡はこれまで自分のプライベートな部分、特に家族のことについては他人に話すのを避けてきた。しかし、望に対しては、何も隠す必要がないと思えたのだ。いや、むしろ進んで自分の大切な一部を共有したいと、心から願った。
紡の言葉を聞いた望は、一瞬だけ神妙な表情を見せたが、次の瞬間には、これ以上ないほどの満面の笑みをその顔いっぱいに浮かべた。夕陽の光さえも霞んでしまうような、弾けるような元気な笑顔だった。
「うん! 私も会いたい!」
そう言って、望は自分の小さな手を差し出してきた。紡はその手を、今度は迷わずにぎゅっと握り返した。
夕陽に染まる帰り道。二人の影はやはり長く伸びていたけれど、その影はもう、バラバラに離れてはいなかった。二つの影はしっかりと手をつなぎ、寄り添うようにして、明日へと続く道を一歩一歩、確かに進み始めていた。紡の心の中に巣食っていた「私なんか」という暗い影は、望という太陽のような光によって、完全に、そして木っ端微塵に壊されていたのだった。




