1─10 2024年 歪んだ標的
2024年
どんよりとした薄曇りの空から、今にも雨が降り出しそうな、重苦しい火曜日の朝だった。
いつもの坂道を上りながら、胸の奥に澱のように溜まる重圧を感じていた。ここ数日、クラスの空気は明らかに棘を帯びていた。すれ違いざまに聞こえるあからさまな囁き声、背中に突き刺さる冷ややかな視線、そして、彼女が近づくと不自然に途切れる会話の輪。それらすべてが、紡の心を少しずつ、だが確実に削り取っていた。
学校に到着し、ホームルームを終えた後の第一限目は、時間割によれば美術の移動教室だった。紡は周囲の様子を窺いながら、机の中から使い古したスケッチブックと絵の具セットを取り出した。周りの生徒たちはそれぞれ荷物をまとめ、そそくさと教室を出ていく。その動きはどこか慌ただしく、誰一人として紡と目を合わせようとはしなかった。
「行かなきゃ」
小さく息を吐き出し、紡は一人で教室を後にした。
美術室があるのは、特別棟の二階、西側の突き当たりだ。本校舎から渡り廊下を渡るにつれ、生徒たちの賑やかな声は遠ざかり、代わりに独特の静けさが辺りを支配し始める。
紡は一歩一歩、確かな足取りで廊下を進んでいったが、美術室に近づくにつれて、胸の中に奇妙な違和感が膨らんでいくのを覚えざるを得なかった。いつもなら、移動教室の前の廊下には、早く着いた生徒たちがたむろして雑談を交わしているはずだった。笑い声や、筆を洗うバケツの水が揺れる音、イーゼルを運ぶ鈍い音が聞こえてくるはずの場所が、今はただ、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
美術室の前に立ち、紡は目の前にある重い木製のドアを見つめた。使い込まれて黒ずんだ真鍮のドアノブに手をかけ、ゆっくりと力を込めて押し開ける。
「失礼します……」
控えめに声をかけながら足を踏み入れたが、その声は誰に届くこともなく、虚しく室内の空間に吸い込まれていった。
中には、誰もいなかった。
窓から差し込む薄暗い光の中に、整然と並べられた木製の机と丸椅子が、まるで忘れ去られた遺物のように静まり返っている。部屋の隅に置かれた石膏像だけが、虚無的な眼差しで空間を見下ろしていた。黒板には何も書かれておらず、日付すら残されていない。ただ、設定温度を低くされた冷房だけが静かに稼働しており、肌を刺すような冷気と静寂だけが、広く誰もいない部屋を満たしていた。
紡は呆然としながら、壁に掛けられた大きな丸時計に目をやった。長針は間もなく真上を指そうとしており、授業開始のわずか五分前を示している。
さすがに、授業直前になっても生徒が一人も、それどころか担当の教師さえも来ていないのは、どう考えてもおかしい。
「あれ……? みんな、まだ来てないの……?」
ぽつりと呟いた言葉は、冷たい空気の中に消えた。
心臓の鼓動が、急に早くなるのを感じた。ドクドクと、耳の奥で不快な音が脈打つ。胸を鋭く突くような、嫌な予感が全身の肌を粟立たせた。
紡は慌てて美術室を飛び出し、重いドアを閉めると、元来た廊話を早足で引き返し始めた。渡り廊下を走り抜け、本校舎へと戻る。心なしか、校舎全体の静けさが彼女を嘲笑っているかのように思えた。
二年生の教室が並ぶ廊下へと戻り、違うクラスの前を通りかかった、その時だった。
奥にある2組の教室の前後ろのドアが、勢いよく開いた。そこから、血相を変えて飛び出してきたのは、望だった。
望は廊下を見回し、紡の姿を捉えるや否や、弾かれたように駆け寄ってきた。
「紡! 何かあった?」
望は叫ぶような声で言うと、紡の両肩を痛いほどの強さでガシッと掴んだ。その瞳には、明らかな焦りと憤怒の色が混ざり合っている。彼女は紡の身を隠すようにしながら、周囲の教室や廊下の陰に誰もいないか、警戒するように鋭い視線を巡らせた。
「一限目は移動教室で、美術室のはずなんだけど……。でも、誰もいなくて」
紡が困惑しながら事情を説明しようとすると、望はやはり、というように苦々しく顔を歪め、奥歯を噛み締めた。
「やっぱり……! そういうことか、あいつら……!」
「え……? どういうこと?」
望は掴んでいた紡の肩から手を離し、悔しそうに自分の髪をガシガシと乱暴に掻きむしった。
「今朝ね、一組の何人かが、廊下であんたのクラスの奴らと話してるのが聞こえたの。わざと大きな声で『今日の美術は急に自習になって教室が変更になった』って言ってたんだよ。私はその時、ただの連絡事項かと思って聞き流しちゃってたんだけど……。でも、よく考えたらおかしいと思って、本当の授業場所は美術室なんかじゃない、視聴覚室なんだよ」
望の言葉が、紡の脳内で何度もリフレインした。
クラスの全員が結託し、自分一人のためだけに嘘の変更情報を流したのだ。自分を誰もいない冷え切った美術室へと誘導し、そこに置き去りにする。授業が始まっても現れない自分を、視聴覚室に集まったクラスメイトたちはどんな顔をしているのだろう。きっと、悪意に満ちた笑みを浮かべながら、「古山、遅刻かな」「サボりじゃない?」などと囁き合っているに違いない。
あまりにも幼稚で、古典的で、だけど、確実に標的の心を折りにくる、計算された悪意。
「また、か……」
ぽつりと漏らした紡の声は震えていた。視線は自然と足元へと落ち、視界が涙で滲みそうになるのを必死で堪える。俯く紡の細い肩を見て、望はさらに表情を険しくした。
「まさか、ここまでとは思わなかった」
望は怒りで声を震わせながらも、すぐにハッと我に返ったように壁の時計を見た。チャイムが鳴るまで、もう一分もない。
「とにかく、感傷に浸ってる暇はないよ!授業に遅れちゃうから、早く行こう!先生が来る前に滑り込まないと、あいつらの思うツボだから!視聴覚室は三階の奥!」
「……うん」
紡は小さく頷くのが精一杯だった。そんな紡の手を、望は迷うことなく、驚くほど強い力でギュッと握りしめた。その手のひらの熱さに、紡は弾かれたように顔を上げた。
「走るよ!」
望の短い掛け声とともに、二人は廊下を走り出した。
バタバタと、上履きがリノリウムの硬い床を激しく蹴る音が、静まり返った校舎の廊下に大きく響き渡る。他のクラスの授業前の静けさを切り裂くように、二人の少女はひたすら走った。
階段に差し掛かり、一段飛ばしでステップを駆け上がっていく。息がすぐに苦しくなり、肺が冷たい空気を吸い込んで痛んだが、望の手は決して紡の手を離さなかった。それどころか、紡が遅れそうになるのを引っ張り上げるように、力強く前へと進んでいく。
三階へと辿り着き、二人は長い廊下をさらに奥へと突き進んだ。
廊下の窓から差し込む光が、走る二人の影を長く引き伸ばす。いくつかの教室を通り過ぎ、その度に中にいる生徒たちの視線を感じたが、今の二人にはそれを気にする余裕などなかった。
そして、ようやく廊下の最果てに、他の教室よりも一回り大きな引き戸が見えてきた。その磨りガラスの向こうに、多くの生徒たちが席についている気配と、クラスメイトたちの独特のざわめきが透けて見える。間違いなく、そこが紡のクラスが集まる視聴覚室だった。
二人がその扉の前に辿り着いた瞬間、無情にも、授業開始を告げるキーンコーンカーンコーンという予鈴のチャイムが、校内中に鳴り響いた。
タイミングは最悪だった。授業は今、まさに始まろうとしている。
普通なら、気まずさに身をすくませ、そっとドアを開ける場面かもしれない。しかし、望は違った。彼女の怒りと紡を守ろうとする意志は、最高潮に達していた。
望は走ってきた勢いをそのままに、視聴覚室の重いアルミ製の引き戸に手をかけると、全身の体重をかけるようにして、大きな音を立てて力強く開け放った。
バァン──!
激しい衝撃音と振動が、静まり返ろうとしていた視聴覚室の中に凄まじい音量で響き渡った。
その場にいた全員の動きが、完全に停止した。
教壇の上で、ちょうど教科書と出席簿を広げようとしていた美術担当の初老の男性教師が、驚愕の表情で振り返る。そして、階段状に並んだ座席についていたクラスの全員──およそ三十数人の生徒たちが、一斉に、弾かれたように入り口へと視線を向けた。
入り口には、激しい運動のために肩を大きく上下させ、苦しそうに息を切らせて立つ紡の姿があった。そしてその隣には、紡の右手をがっちりと、誰にも引き離せないほどの強さで掴み、前を見据えている望が立っていた。
一瞬の静寂。
その後、教室の中の空気が、じわじわと嫌な形に変質していくのを紡は肌で感じた。
前方の席に座る、今回の悪巧みの主犯格と思われる女子グループの数人が、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに状況を察して、口元を手のひらで隠しながらニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた。その目は「ちっ、来ちゃったか」と言わんばかりの落胆と、それでもなお紡を嘲笑う色に満ちていた。
一方で、他の多くの生徒たちは、関わり合いになりたくないというように、気まずそうに視線を泳がせ、あるいは露骨に目を逸らして手元の教科書に視線を落とした。誰もがこの状況の理由を知っており、そして誰もが黙認していたのだ。
その光景を見た瞬間、望の瞳に、激しい怒りの炎が燃え上がるのを紡は間近で見た。望はクラス全員の顔を、一人残らず射殺すかのような鋭い視線で睨みつけた。彼女の小さな体が、怒りのあまり小刻みに震えている。
教師が「おい、仲田、お前は違うクラスの──」と口を開きかけたが、望はそれを遮るように、お腹の底から、教室の壁を震わせるほどの声を張り上げた。
「次、紡のこといじめたら、絶対に許さない!」
その声は、広々とした視聴覚室の隅々にまで響き渡り、天井にぶつかって激しく反響した。
誰もが息を呑んだ。ニヤニヤと笑っていた女子生徒たちの顔から一瞬で余裕が消え、不快そうに顔をしかめた。教室全体が、冷水を浴びせられたかのように完全に静まり返る。
望の言葉には、一切の迷いも、怯えもなかった。それは純粋な怒りであり、同時に、大切な友人を守るための、絶対的な宣戦布告だった。
教師はあまりの剣幕に圧倒されたのか、それともクラス内に漂う不穏な空気を察したのか、それ以上望を咎めるような言葉を発することはできなかった。ただ、「……よし、古山、早く席に着きなさい。仲田は自分の教室に戻るように」と、やや困惑気味に促すことしかできなかった。
望は教師の言葉など耳に入っていないかのように、もう一度クラス全体をギロリと睨みつけると、繋いだままの紡の手を優しく引き、教室の中へと歩き出した。
「行こう、紡」
「……うん」
開いている空き席へと向かう間、クラスメイトたちの視線が痛いほど突き刺さったが、不思議と先ほどまでの恐怖は消え失せていた。望が隣にいて、その手を引いてくれているという事実だけで、紡の足元は驚くほど安定していた。
紡が席に着くのを見届け、望はようやくその手を離した。そして、もう一度だけクラスの後方に向けて鋭い視線を投げかけると、堂々とした足取りで視聴覚室を後にし、廊下の引き戸を静かに閉めた。
授業が始まり、プロジェクターの明かりが落とされ、室内が薄暗くなる。教師の解説する声が淡々と響く中、紡は震える手でカバンから美術の教科書とノートを取り出した。
ページを開く紡の指先は、極度の緊張と興奮の余韻で、まだ微かに震えていた。文字が滲んでうまく読めない。冷房の風が、汗ばんだ肌を冷やしていく。
けれど、さっきまで望に強く握られていた右手の掌だけは、いつまでも、いつまでも、じんわりとした確かな熱を持っていた。その熱は、皮膚を通して紡の心の最も深いところへと染み渡り、冷え切っていた彼女の心を内側から温めていくようだった。
(一人じゃない……)
味方が、いるだけで。
ただそれだけのことで、人間はこんなにも強くあれる。こんなにも、理不尽な世界と戦えるだけの勇気が湧いてくる。
薄暗い視聴覚室の中、紡は教科書の隅を見つめながら、心の中で何度も、何度も、望の名前を呼んだ。そして、言葉にならないほどの深い感謝を、その熱が残る右手に込めるように、そっと握りしめるのだった。




