1─9 2024年年 背中を合わせた二つの痛み
2024年
「どうだった? 例のデート」
翌日の放課後、クラスの終わりのホームルームが解散した直後、望が紡の席に駆け込んできた。彼女はいつもより幾分か高いトーンの声で尋ねながら、紡の机に両手を突き、上半身をこれでもかと前のめりにして身を乗り出した。その瞳は期待と好奇心、そして何よりも親友の恋の成就を願う純粋な応援の気持ちでキラキラと輝いていた。
しかし、紡からの返答はすぐには返ってこない。ただでさえ小さな彼女の身体が、机の上でさらに縮こまり、丸まった背中が微かに震えているだけだった。望は一瞬、おや、と小首を傾げたが、まだ事態の深刻さには気づいていないようだった。
紡は机に突っ伏したままの姿勢を変えず、髪の隙間から、今にも消え入りそうな蚊の鳴くような声でようやく言葉を絞り出した。
「……ダメだった」
その一言は、静かな教室の片隅にぽつりと落とされた。
「はぁ!? ダメだったってどういうこと!?」
望は弾かれたように机をバンと両手で叩いて立ち上がった。そのあまりの勢いに、周囲に残っていた数人のクラスメイトが驚いてこちらを振り返ったが、今の望にはそんな周囲の視線など一切目に入っていなかった。彼女の顔には、驚愕と、それから何故か自分のことのように憤慨したような色が急速に広がっていく。
紡はゆっくりと、重い身体を起こした。だが、顔は伏せたままで、視線は自分の膝の上できつく握り締められたスカートの生地に落とされている。指先が白くなるほどに力を込めて、彼女は昨日の出来事をなぞるように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「最初から理玖は、私のこと好きじゃなかったんだよ。私が我が儘言ったから、デートしてくれただけ」
言葉を重ねるごとに、紡の声は震え、涙の成分が混じって湿り気を帯びていく。理玖の冷たくも哀しげな表情が、今も脳内でリフレインしていた。あの時の彼の表情、夕暮れの街並み、そして急に遠くなってしまった彼の背中。思い出そうとするだけで、胸の奥が鋭い刃物で抉られるように痛む。
そんな紡の姿を見て、望はフンガーとコミカルなほどに鼻息を荒くした。怒りのボルテージが頂点に達したと言わんばかりに、彼女は仁王立ちの姿勢から一転して腰を落とし、突っ伏そうとする紡の顔を両手で挟んで持ち上げた
「紡、その理玖って子のこと、本当に好きなの?」
望の真っ直ぐな、誤魔化しを許さない強い視線が紡の瞳を捉えた。
本当に、好きなのか。
その問いかけは、紡の心の一番深いところにある、まだ実体の掴めない不確かな輪郭を激しく揺さぶった。
紡は視線を彷徨わせ、涙で潤んだ瞳をさらにうるませながら、縋るように望を見つめた。
「わからない……。人を好きになったことなんてないから、これがその気持ちなのか分からないの。だけど、また会いたいって思う。私のそばにいてほしいって、思う」
紡の瞳から、ついに堪えきれなくなった大粒の涙がぽろぽろと溢れ出し、彼女の白い頬を伝って机の上に小さなシミを作っていく。一度堰を切った涙は止まることを知らず、彼女の小さな肩は激しく上下し始めた。
そのボロボロと崩れ落ちていく紡の姿を見て、望の表情から先ほどまでの激しい怒りや興奮が、まるで魔法のようにスッと消え去った。代わりにその顔に浮かび上がったのは、すべてを包み込むような、そしてどこか哀愁を帯びた、深い包容力を湛えた大人のような顔つきだった。
望はそっと自分の椅子を引き寄せ、紡の隣の席に腰を下ろした。そして、机の上で涙を拭うこともできずに震えていた紡の、あの頼りなげで小さな手を、自分の両手で優しく、包み込むように握り締めた。望の手は、驚くほど温かかった。
「紡は一人じゃないんだよ」
その声は、先ほどの怒声とは打って変わって、まるで幼子をあやす母親のように穏やかで、静かだった。
「望ちゃん……」
紡は涙に濡れた顔を上げ、潤んだ瞳で親友の顔を見つめた。望の瞳は、いつも通りのひまわりのような明るさではなく、もっと深い、海の底のような静けさを湛えていた。
「あのね、私のお父さん、去年の冬に事故で死んだの」
突然の、あまりにも唐突で重い告白に、紡は思わず息を呑んだ。涙が一瞬で引っ込むほどの衝撃が、彼女の身体を駆け巡る。望が父親を亡くしていることは知らなかった。いつも誰よりも明るく、笑顔を振りまいている望の口から、そんな過酷な過去が語られるとは夢にも思っていなかったのだ。
「本当に突然でさ、お別れも言えなかった。朝、『行ってきます』って言って普通に仕事に出かけて、それっきり。夜に警察から連絡が来た時は、何が起きたのか全然分からなかった。世界が全部嘘みたいに思えて、涙も出ないくらいショックでさ。毎日、お父さんの部屋に行っては、もう誰もいない机を見て泣いてた」
望は淡々と、しかし一言一言を噛み締めるように語る。その握り締められた手から、彼女が当時抱えていたであろう絶望の重みが、紡の手へと伝わってくるようだった。
「その時にね、分かったんだ。たとえどれほど辛い別れが来たって、人は絶対に一人にはならない。お父さんがいなくなって、私は世界で一番孤独になったって思った。でも、そんな私を支えてくれるお母さんがいる。それにね、そうやって傷ついた心のままで生きているうちに、また新しい出会いがあって、新しい人と知り合って、その人がまた、自分の大切な人になっていく」
望は紡の手をさらに強く握り直すと、ふと視線を紡から外し、窓の外の、遠く広がる夕暮れ時の空を見つめた。茜色と薄紫色が混ざり合うグラデーションの空は、昼と夜の境界線で美しく、そしてどこか寂しげに輝いている。
その窓辺の光に照らされた望の横顔は、今にも泣き出しそうな子供のようでありながら、同時にどんな困難にも屈しないという、誰よりも強い意志を宿していた。彼女もまた、大切な人を失うという大きな痛みを経験し、それを乗り越えて、あるいはその痛みと共にあることを受け入れて、今ここに立っているのだ。
「だから、別れを恐れないで。それを受け入れて、前に進もう、紡」
望の言葉は、紡の凍りついた心の奥底へと、じわじわと温かいお湯のように染み渡っていった。
紡は、自分の小ささを激しく恥じた。
目の前にいる望は、もっと大きな、理不尽で取り返しのつかないほどの痛みを乗り越えて、こうして自分に手を差し伸べてくれているのだ。自分の痛みに溺れることなく、他人の痛みに寄り添い、笑顔で励ましてくれる。その強さが、今の紡には眩しかった。




