第4章 第9話:土曜日の夕闇、溶けゆく氷と繋がる温度
「ただの同僚のフリなんて、もうできるわけないじゃない……」
千歳が絞り出したその言葉は、しっとりとした土曜日の夕闇が広がり始めたリビングに、ひどく切なく響き渡った。
ローテーブルの上のグラスでは、冷たい麦茶のなかの氷が、カランと小さな音を立てて静かに溶けていく。
完璧に崩壊してしまった、オフィスでの「他人のフリ」という脆いガラス細工の防壁。
大義名分をすべて失い、お互いを特別に想い合っているという事実を知ってしまった今、あの戦場のようなオフィスで完璧なビジネス敬語を使い回すことが、どれほど困難で、どれほど理性を狂わせるか。千歳が抱くその恐怖は、そのまま俺の胸の奥で暴れるドギマギとした精神的狂瀾と同調していた。
「千歳」
俺はローテーブルの上に置いていた手を、ゆっくりと動かした。
そして、冷たいグラスを包み込んでいた彼女の、白く細い指先の上に、自分の手のひらをそっと重ねた。
「あ……」
千歳は小さく息を呑み、肩を震わせた。
ガラスの結露で濡れた彼女の指先は、驚くほど冷たくなっていた。だが、彼女はその手を引こうとはしなかった。それどころか、俺の手のひらの温もりを確かめるように、捕らえられた指先を微かに動かし、俺の指の隙間にそっと滑り込ませてきた。
「できなくていいよ、完璧なフリなんて」
俺は重ねた手に少しだけ力を込め、彼女の横顔をじっと見つめた。
「通路ですれ違うときに動揺したって、業務連絡の声が少し上擦ったって、誰も俺たちの本当の秘密になんて気づきやしない。もし誰かに気づかれそうになったら、その時は……俺が全力で誤魔化してやるから」
「……何それ。あんた、嘘つくの全然下手くそなクセに」
千歳は頑なに向こうを向いたまま、泣き出しそうな声で、だけどいつものように小さくふんす、と鼻を鳴らした。
ゆっくりとこちらを振り向いた彼女の大きな瞳は、夕闇のなかで濡れたようにきらきらと光っていて、その頬から耳たぶにかけては、コンロの熱気のせいではない、濃密な桜色の赤みに染まっていた。
繋いだ指先から、千歳の冷えていた体温が、俺の熱を吸い上げてじわじわと温まっていくのが分かる。
安全な仮面をすべて失い、月曜日からの日常という名の袋小路に怯えながらも、俺たちは重ね合わせた手のひらの圧倒的な確信から、もう目を背けることはできなかった。歪なモラトリアムが本当の終わりを告げる直前の、途方もなくじれったい時間が、二人の間でどこまでも熱く混線し続けていた。




