第4章 第10話:日曜日の憂鬱、エプロンなきキッチンと新しい甘さ
日曜日、21時半。
明日からまた始まる一週間を前に、俺の部屋のキッチンは、これまでの日曜日とは決定的に違う静寂に包まれていた。
いつもならこの時間、香ばしい胡麻油やスパイシーな調味料の匂いがフロア全体を満たし、淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が「ほら、ロンドンで困らないように火加減を完璧に覚えなさいよね!」と鼻を鳴らしていたはずだった。
だが、今夜のコンロには火が入っていない。
「海外生活のための自炊訓練」という不器用な大義名分が消滅した今、彼女の腰にああのエプロンが巻かれることはなかった。
「――はい、これ。今日は来る途中にデパ地下で買ってきたの。だから、今夜はコンロの予習はナシ」
千歳はローテーブルの上に、彩り豊かな惣菜の並んだプラスチックの容器をコト、と置いた。
落ち着いたサマーニットに、柔らかなロングスカート。お団子頭にまとめず、肩へとそのまま落とされた艶やかな黒髪の隙間から覗く耳たぶが、部屋の薄明かりの中でほんのりとした桜色に染まっている。
「ありがとな。お茶淹れるよ」
「うん……お願い」
キッチンで急須に湯を注ぐ音が、いつもより低く、重く響く。
お互いに、これまでの「幼馴染の男友達」と「広報部のエース」という安全な境界線を自らの手で壊し、昨日、その指先を深く絡め合って本音を曝け出してしまった。だからこそ、エプロンという免罪符すら持たない状態で並んで座ると、どうやって会話を組み立てればいいのかが分からなくなってしまう。
湯呑みをテーブルに置き、俺は千歳の少し隣に腰掛けた。
「あのさ、蓮……」
千歳は惣菜に手を伸ばさないまま、膝の上で細い指先をぎゅっと絡ませ、ぽつりと言った。
「明日、月曜日だね」
「ああ。また一週間が始まるな」
「うん。……変だよね」
千歳は自嘲気味に小さく微笑んだ。だが、その大きな瞳の奥には、明日からのオフィスに対するドギマギとした激しい精神的狂瀾が隠しきれずに揺らめいている。
「これまでは、次に作るメニューのこととか話すことが山ほどあったのに。大義名分がなくなったら、私、あんたの前にどんな顔して座ってたらいいのか、急に分からなくなっちゃって。……明日からの会社も、完璧に他人のフリなんて、もうできるわけないのに」
千歳はゆっくりと顔を上げ、少し潤んだ瞳でまっすぐに俺を見つめた。
昼間のオフィスで見せる、完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」。そして、夜の部屋で本音を曝け出し合ったあの体温の記憶。
そのすべてが、静かな部屋の中で混ざり合い、二人の間の空気をじりじりと焦がしていく。
安全な仮面を失い、お互いを特別に想い合っているという剥き出しの事実だけを抱えた俺たちは、この心地よくも息苦しい沈黙の中で、新しい距離感の名前を求めて、ただじれったく立ち往生していた。




