第4章 第11話:月曜日の朝、冷徹な仮面と爆ぜる秒針
月曜日の午前8時45分。
オフィスビルの自動ドアをくぐった瞬間、冷房の乾いた空気が俺の肌を撫でた。
週末のあの濃密な、お互いの指先を深く絡め合った時間から、とうとう日常の歯車が回り出す。
俺は人事部のデスクにつき、PCの電源を入れて新入社員の研修データを画面に展開した。
しかし、キーボードを叩く俺の胸の奥は、これまで経験したことのないほどドギマギとした激しい精神的狂瀾に支配されていた。
終わりの決まったロンドン赴任という砂時計が消え去り、夜の部屋でのエプロンという免罪符すら失った今、このオフィスで「ただの同僚」を演じることが、これほどまでに理性を揺さぶるものだとは思わなかった。
(……千歳は、もう来てるはずだ)
広報部のブースに視線を向けると、そこにはすでに彼女の姿があった。
一寸の隙もないネイビーのジャケット、知的にまとめられたハーフアップの髪。彼女は周囲の社員からの質問に「はい、そちらのプレスリリースに関しましては……」と、完璧なビジネス笑顔で応じている。
完璧に崩壊しかけているはずの「他人のフリ」の裏側で、彼女もまた、あの週末の体温を必死に押し殺しているのだろうか。
「――相馬さん、お疲れ様です。広報部から今期の社内報に関する共有データをお持ちいたしました」
カツカツと小気味よいヒールの音が俺のデスクの前で止まり、凛とした声が降ってきた。
顔を上げると、そこには完璧な「広報部の如月さん」が立っていた。周囲の誰もが、俺たちをただの「業務連絡を行う二人の社員」としてしか見ていない。
「ありがとう、如月さん。今ちょうど、人事部側のスケジュールを確認していたところだ」
「恐れ入ります。共有フォルダーにも格納してありますので、後ほどご確認ください」
言葉遣いは完璧なビジネス敬語。表情も冷徹なほどに知的だ。
だが、差し出されたクリアファイルを俺が受け取ろうとしたその瞬間、彼女の白く細い指先が、俺の指に微かに触れた。
――ビクッ、と千歳の身体が小さく跳ね上がった。
千歳は咄嗟に表情を崩さなかったが、まっすぐに俺を見つめるその大きな瞳の奥が、激しく、そして切なげにゆらゆらと揺らめいた。
髪の隙間から覗く彼女の耳たぶが、オフィスの白い蛍光灯の下で、隠しきれない綺麗な桜色に染まっていくのを、俺の目は見逃さなかった。
「……じゃあ、如月さん。すぐに目を通しておくよ」
「はい。よろしく、お願いいたします」
千歳はそれだけ言うと、深く一度だけ瞬きをし、翻るように去っていった。
すれ違いざま、オフィスの無機質な空気の中に、彼女の愛用している少し甘い香水の匂いが鮮烈に溶けていく。
安全な仮面を失い、お互いを特別に想い合っているという事実を知ってしまった俺たちにとって、この徹底された「他人のフリ」は、内側から溶け出す熱量でもう限界を迎えつつあった。




