第4章 第12話:月曜日の給湯室、鉄の仮面がひび割れる場所
午後15時。
オフィスの張り詰めた空気に頭が火照り、俺は気分転換を兼ねて、廊下の奥にある給湯室へと向かった。
マグカップを片手にドアを開けると、先客が一人、背中を向けて立っていた。
ネイビーの端正なジャケットに、知的にまとめられたハーフアップの髪。
広報部のエース、如月千歳だ。
彼女は自動コーヒーマシンの前で、カップに注がれる黒い液体をじっと見つめていた。
「あ……」
俺の足音に気づいて振り返った千歳の大きな瞳が、一瞬だけ丸くなった。
誰もいない、狭い給湯室。オフィスの喧騒から隔絶されたその空間に、マシンの駆動音だけが低く響いている。
「お疲れ様です、相馬さん」
千歳はすぐにいつものビジネススマイルを作り、完璧な敬語で一礼した。
だが、その声は午前中のデスクの時よりも、ほんの少しだけ上擦っているように聞こえた。
「ああ、お疲れ様、如月さん」
俺も努めて冷静に声を返し、マシンの隣にあるウォーターサーバーへと歩み寄った。
すぐ傍に並ぶと、彼女の纏う少し甘い香水の匂いが、オフィスの無機質な空気の中で一気に濃度を増した。昨夜、俺の部屋のリビングで、エプロンも料理もないまま隣り合っていたときの彼女の体温が、強烈な残像となって脳裏にフラッシュバックする。
千歳はコーヒーを手に取ったが、そのまま部屋を出ていこうとはしなかった。
ドアの方をチラリと気にするように視線を泳がせ、それから、誰も来ないことを確信すると、ふう、と小さく張り詰めていた息を吐き出した。
「……もう、限界」
ぽつりと溢されたのは、ビジネス敬語ではない、いつもの千歳の声だった。
彼女はコーヒーカップを両手で包み込んだまま、俯くようにして肩をすくめた。
「フロアにいるとき、あんたの視線が少しでもこっちを向くだけで、心臓が変な音立てて暴れるのよ。さっきだって、ただの書類の受け渡しなのに、指先が触れただけで頭の中が真っ白になって……」
千歳はゆっくりと顔を上げ、少し潤んだ瞳で俺を睨むように見つめた。
完璧に着こなしているはずの「鉄の仮面」は、今にも崩壊しそうなほど脆くひび割れている。ハーフアップの隙間から覗く彼女の耳たぶは、給湯室の白い蛍光灯の下で、隠しきれない鮮やかな桜色に染まっていた。
「あんた、なんでそんなに平気な顔して仕事できるわけ? 幼馴染のフリも、同僚のフリも、もう全部めちゃくちゃじゃない……」
大義名分を失い、想いを通じてしまったからこそ、オフィスという日常の戦場が、二人の理性を激しくかき乱す。
誰も来ない隠れ家のような空間で、千歳のドギマギとした精神的狂瀾が、じりじりと二人の距離を縮めようとしていた。




