第4章 第8話:土曜日の午後、冷たい麦茶と近づく距離
「大義名分がなくなったら、私、あんたの前にどんな顔して座ってたらいいのか、急に分からなくなっちゃって」
ソファの端で、冷たい麦茶のグラスを両手で包み込みながら呟いた千歳。
ガラスの表面に浮かんだ無数の結露が、彼女の細い指先を濡らし、ぽつり、ぽつりとローテーブルの上に小さな水滴を落としていく。
エプロンという名の免罪符を外し、ただ一人の少女として俺の隣に佇む彼女の姿は、あまりにも無防備で、そして狂おしいほどに愛おしかった。
毎晩のようにキッチンで「火加減を完璧にマスターしなさいよね!」と鼻を鳴らしていたあの強気な幼馴染はどこへやら、今の千歳は、壊してしまった境界線の前で途方に暮れる迷子のように見えた。
「千歳」
俺は少し掠れた声で彼女の名前を呼び、ソファのクッションを一つ分、彼女の方へと詰め寄った。
「な、何よ……」
千歳はビクッと肩を揺らし、グラスを握る手に力を込めた。
お団子頭にまとめられていない艶やかな黒髪が、彼女が動くたびに肩口でさらりと揺れ、その隙間から覗く首筋が、部屋の柔らかな光の中で白く浮かび上がっている。
「顔なんて、いつも通りでいいんだよ」
俺はそう言いながら、彼女の持つグラスのすぐ近く、ローテーブルの上に自分の手を置いた。
触れそうで触れない、わずか数センチの距離。それだけで、俺の胸の奥のドギマギとした精神的狂瀾は、再び激しい拍動を刻み始める。
「ロンドンに行くっていう理由がなくなっても、俺がここにいてほしいのはお前だし、お前がここに来たいと思ってくれたなら、それだけでいい。無理に『ただの男友達』に戻る必要なんて、最初から一ミリもないんだからな」
「……あんたは、ずるいよ」
千歳はグラスを見つめたまま、泣き出しそうな、だけどどこか甘えたような声を絞り出した。
彼女の長い睫毛が微かに震え、頬がほんのりとした綺麗な桜色に染まっていく。
「そんなこと簡単に言うけど……じゃあ、明後日の月曜日から、私は会社でどんな顔してあんたの横を通り過ぎればいいのよ。ただの同僚のフリなんて、もうできるわけないじゃない……」
完璧に崩壊してしまった「他人のフリ」の境界線。
想いが通じ合い、お互いを特別に想い合っているという事実を知ってしまったからこそ、迫りくる日常のリアルな視線が、二人の理性を激しく揺さぶる。
冷たいグラスを挟んで、お互いの不器用な熱量だけが、土曜日の静かなリビングの中で、どこまでもじれったく混線し続けていた。




