第4章 第7話:土曜日の境界線、淡いエプロンを外したままで
土曜日の午前11時。
窓の外からは、休日特有ののんびりとした街の喧騒が、微かな風に乗ってカーテンを揺らしていた。
俺はリビングのソファに腰掛け、冷めきったコーヒーのカップを眺めていた。
昨夜、金曜日の深い夜のなかで、俺たちは指先を固く絡め合い、これまでの歪なモラトリアムの終焉を告げる静かな誓いを交わした。大義名分をすべて失い、剥き出しになったお互いの本音。その圧倒的な熱量は、今も俺の胸の奥でドギマギとした精神的狂瀾となって、静かに、だけど激しくトク、トクと拍動を続けている。
「――お待たせ。ちょっと、勝手に冷蔵庫借りて麦茶淹れちゃったけど、文句言わないでよね」
パタパタと小気味よいスリッパの音と共に、キッチンから千歳が姿を現した。
今日の彼女の腰には、あの毎晩のように身にまとっていた淡いピンク色のエプロンはない。柔らかなオフホワイトのカットソーに、緩やかなデニムのロングスカート。ハーフアップにまとめられていない、肩にそのまま落ちた艶やかな黒髪が、朝の光を浴びてしっとりと輝いている。
ロンドン赴任の白紙撤回。そして昨夜の、お互いの仮面を剥ぎ取るような独白。
「海外生活のための自炊訓練」という、二人がこの部屋で寄り添うための唯一の免罪符は、名実ともに完全に消滅した。料理を作る理由なんて、もう一辺も残されていない。
それなのに、千歳は土曜日の午前中から、当然のように俺の部屋にいる。
「いや、助かるよ。ありがとな」
「フン、感謝しなさいよね」
千歳はグラスをローテーブルに置くと、俺から少しだけ離れたソファの端に、ちょこんと腰掛けた。
いつもなら「ほら蓮! 次のプロセスの予習するわよ!」と生意気に胸を張って距離を詰めてくるくせに、エプロンという名の防壁を外した途端、彼女の行動は途端にぎこちなくなる。
膝の上で所在なげに弄ばれている、彼女の細い指先。
昨夜、その指先を限界まで強く絡め合い、お互いの体温を確かめ合った記憶が、二人の間の空気を一瞬にして気恥ずかしい微熱で満たしていく。
「……なんか、変な感じね」
千歳はグラスを見つめたまま、ぽつりと呟いた。その大きな瞳の奥には、昨日までの焦燥とは違う、だけど確実に理性を揺さぶる混線した感情がゆらゆらと揺らめいている。
「これまでは、次に作るメニューのこととか、ロンドンに持って行く調味料のこととか、話すことが山ほどあったのに。……大義名分がなくなったら、私、あんたの前にどんな顔して座ってたらいいのか、急に分からなくなっちゃって」
千歳は少しだけ首を傾げ、髪の隙間から覗く耳たぶを、ほんのりとした桜色に染めてみせた。
安全な「幼馴染の男友達」という殻を自ら粉砕してしまったからこそ、ただ隣に並ぶだけで、お互いに新しい距離感の名前を測りかねて立ち往生してしまう。
タイムリミットの消え去った世界で、二人のじれったいモラトリアムの第2幕は、土曜日の穏やかな光の中で、どこまでも甘く、もどかしく回り始めていた。




