第4章 第6話:金曜日の夜、肉豆腐の静寂と静かな誓い
俺の手のひらに額を押し当てたまま、小さく肩を震わせる千歳。
繋いだ指先からは、彼女が一人で抱え込んできた焦燥と、明日からの世界が変わってしまうことへのリアルな怯えが、波のように絶え間なく伝わってきた。
テーブルの上では、かつて俺たちを狂わせた「自炊訓練」の象徴である肉豆腐が、すっかり湯気を失い、静かに佇んでいる。
終わりの決まった砂時計が消え去り、都合のいい大義名分すら失った今、この冷めかけた料理は、俺たちが引き延ばし続けてきた歪なモラトリアムの終わりを静かに告げているようだった。
「千歳」
俺はもう片方の手をゆっくりと伸ばし、彼女の乱れたハーフアップの髪にそっと触れた。
指先にかかる黒髪は驚くほど柔らかく、触れた瞬間、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、リビングの空気に切なく弾けた。
「……何よ」
千歳は額を俺の手のひらに預けたまま、籠った声で応じる。
その強がりな口調はいつもの幼馴染のトーンだけど、俺の指を握りしめる彼女の力は、少しも緩むことはなかった。
「怖くたっていい。明日からの世界が全部変わるなら、俺が一緒に変わってやる」
胸の奥で渦巻くドギマギとした精神的狂瀾を、俺は一つ一つの言葉に変えて、彼女の耳元へと届ける。
「他人のフリが完璧にできなくたって、オフィスで不器用に向き合うことになったって、もう俺は『幼馴染の男友達』の仮面を被って逃げたりしない。お前を失うくらいなら、不器用なまま立ち往生する方が何百倍もマシだ」
俺の言葉を聞いた瞬間、千歳の身体が微かに震えた。
ゆっくりと顔を上げた彼女の大きな瞳には、まだ涙が溜まっていたけれど、その奥に宿る桜色の熱情は、さっきよりもずっと深く、確かな光を帯びていた。
「……本当に、バカね。あんたって、昔から肝心なところでばっかり格好つけるんだから」
千歳は涙を浮かべたまま、いつものようにふんす、と鼻を鳴らして小さく笑ってみせた。その表情はひどく不器用で、そして狂おしいほどに愛おしかった。
安全な防壁を完全に失った俺たちは、明日からの日常という名の、まだ見ぬ戦場を見つめている。
指先を固く絡め合ったまま、お互いの呼吸を確かめ合う二人の時間は、金曜日の深い夜のなかで、どこまでもじれったく、新しく紡がれようとしていた。




