第4章 第5話:金曜日の夜、涙の輪郭と解けない混線
「言わないで。……まだ、何も言わないで、蓮」
千歳の絞り出すような声が、俺の胸の奥に深く突き刺さった。
絡み合う指先から伝わってくる彼女の熱量は、もうお互いに引き返せないところまで来てしまったことを冷酷なまでに告げている。それなのに、彼女の唇から溢れたのは、拒絶ではなく、あまりにも切ない「躊躇い」の言葉だった。
千歳の頬を伝う涙が、顎のラインを伝って、ローテーブルの上にポツリと小さなシミを作った。
いつもなら一寸の隙もない完璧なハーフアップにまとめられている彼女の髪が、今夜は少しだけ乱れ、その隙間から覗く耳たぶが、肉豆腐の湯気のせいだけではない真っ赤な桜色に染まっている。
「……千歳、お前」
俺は握りしめた彼女の手を引くことも、緩めることもできずに、ただその名前を呼ぶことしかできなかった。
胸の中を暴れ回るドギマギとした精神的狂瀾は、今や限界を超えて俺の理性を焼き尽くそうとしている。
彼女をこのまま強く抱きしめて、すべての不安をかき消してしまいたい。そんな衝動が指先から溢れ出しそうになる。だが、千歳の大きな瞳の奥に宿る怯えが、俺の身体をその場に縛り付けていた。
千歳が怯えている理由は、痛いほどよく分かった。
俺たちが何年もかけて作り上げてきた「幼馴染の男友達」という仮面は、ただの便利な肩書きじゃない。それは、お互いを絶対に失わないための、最も安全で頑丈な防壁だったのだ。
その防壁を自ら粉々に砕いてしまった今、もしこの先、二人の関係が上手くいかなくなったら、俺たちはもう「ただの幼馴染」にすら戻ることはできない。
さらに、明日になればまたいつもの日常が、あの戦場のようなオフィスが始まる。
通路ですれ違うとき、俺たちはどんな顔をすればいい? 人事部の相馬さんと、広報部の如月さん。完璧に崩壊してしまった「他人のフリ」の裏側で、剥き出しになったこの感情を抱えたまま、これまで通り周囲を騙し通せる自信なんて、今の俺たちには一ミリもなかった。
「……ごめん。私、本当にバカだよね」
千歳は弱々しく首を振って、繋いだままの俺の手のひらに、自分の額をそっと押し当ててきた。
手の甲に触れる彼女の額の温もりと、細い肩の震え。
「あんたを困らせたいわけじゃないの。ただ……怖いのよ。明日からの世界が、全部変わっちゃいそうで……」
大義名分をすべて失い、本当の意味で向き合ってしまった俺たちの前には、まだ名前のついていない歪な日常の地図が、ただじれったく広がっていた。お互いを狂おしいほどに想い合っているという事実だけが、薄暗い部屋の中で、どこまでも深く混線し続けていた。




