第4章 第3話:金曜日の夜、触れ合う瞬間の躊躇い
俺の指先が、千歳の震える手の甲にあと数センチまで近づいたその瞬間。
空間のすべてがピタリと停止したかのような、圧倒的な静寂がリビングを支配した。
カウンターキッチンから漂う肉豆腐の甘辛い香りが、かえってこの沈黙の濃度を限界まで高めていく。
千歳は、俺の手が近づいてくるのを拒むように引くことはしなかった。ただ、大粒の涙がとうとう睫毛から溢れ出し、彼女の白い頬を真っ直ぐに伝い落ちていく。
「蓮……」
かすれた声で俺の名前を呼ぶ千歳の唇が、小さく戦慄いていた。
その大きな瞳は、俺の指先の動きをじっと見つめている。
これまで俺たちは、どれだけ心の内側でドギマギとした精神的狂瀾を爆発させていようとも、オフィスでは完璧な「他人のフリ」という仮面を被り、この部屋では「自炊訓練を施す幼馴染」という完璧な大義名分を盾にしてきた。
その安全なルールがあったからこそ、互いの体に触れることも、その一線を越えることもなく、じれったいモラトリアムのぬるま湯に浸かっていられたのだ。
だが、今の千歳はあの淡いピンク色のエプロンを身にまとってはいながらも、心は完全にその防壁を脱ぎ捨てている。
ここで俺が彼女の手に触れてしまえば、もう二度と「ただの男友達」という逃げ道は使えない。明日からのオフィスで、どんな顔をしてすれ違えばいいのか、その答えすら出ていないままだ。
俺の指先が、千歳の薬指の輪郭をかすめる。
ピクッ、と彼女の肩が小さく跳ね上がった。
触れ合ったのは、ほんの数ミリの皮膚の表面だけ。それなのに、そこから流れ込んできた千歳の圧倒的な熱量と切なさが、俺の全身の血流を一気に加速させる。
千歳は視線を上げ、涙に濡れた瞳で真っ直ぐに俺を射抜いた。その瞳の奥には、恐怖を抱えながらも、俺の次の行動を強く、激しく渇望するような、剥き出しの情熱が確かに灯っていた。
崩壊したモラトリアムの淵で、俺たちはまだ、絡め合う指先の重みすら測りかねて立ち往生していた。




