第4章 第2話:金曜日の夜、肉豆腐の熱と震える指先
「私、もう自分を騙したくない。あんたの『都合のいい男友達』のフリをして、傍にいられるだけでいいなんて、もう思えないの」
千歳の口から溢れ出したその言葉は、薄暗いリビングの空気をビリビリと震わせ、俺の鼓動を狂わせるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
ローテーブルを挟んで、二人の間に置かれた出来立ての肉豆腐。
じっくりと味が染み込んだ飴色の玉ねぎと豆腐からは、優しくもどこか切ない湯気が立ち上っている。だが、俺たちの視線はそのご馳走には向かわず、お互いの瞳の奥だけを真っ直ぐに射抜いていた。
千歳は、箸を持たない両手を膝の上でぎゅっと握りしめていた。
白ブラウスの袖から覗く細い手首が、微かに、だけど確実に震えている。
これまでの彼女なら、こんな決定的な本音を口にした後は、すぐに「なーんてね! 冗談よ冗談!」と生意気なツンとした笑顔の裏に逃げ込んでいたはずだ。それが俺たちの、何年もかけて築き上げてきた、お互いを傷つけないための「安全なガラス細工の防壁」だったから。
だけど、今夜の千歳は違った。
潤んだ大きな瞳から、今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪えながら、まっすぐに俺を見つめ続けている。その眼差しは、都合のいい「幼馴染」というモラトリアムの殻を自ら粉々に踏み砕いた、剥き出しの覚悟そのものだった。
「千歳……」
俺の口から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、そして熱を帯びていた。
胸の奥を激しくかき乱すドギマギとした精神的狂瀾が、内側から理性の壁を突き破ろうと暴れ狂っている。
赴任が白紙になり、終わりの決まったカウントダウンは消え去った。
それなのに、俺たちはオフィスで完璧な「他人のフリ」を演じ、夜になればエプロンを免罪符にして、縮まらない距離感の中で立ち往生を続けてきた。傷つくのが怖くて、関係に名前をつけるのを恐れて、形骸化したおままごとを必死に引き延ばしていたのは、千歳だけじゃない。俺も同じだったんだ。
俺はゆっくりと手を伸ばした。
テーブルの端、今にも泣き出しそうな千歳の、その震える指先に向けて。
あと数センチで触れ合うというその距離で、部屋の中に響く雨音のような静寂が、俺たちの焦燥をどこまでも深く煮詰めようとしていた。




