第4章 第1話:金曜日の決断、モラトリアムの終着駅
金曜日の21時半。
部屋を包む空気は、これまでのどの夜とも決定的に違っていた。
キッチンからは、香ばしい醤油とみりん、 asparagus を思わせる出汁の優しい香りがしっとりと立ち上っている。
「――はい、今夜のメニューは肉豆腐よ。お豆腐に味がしっかり染みるように、弱火でじっくりコトコト煮込むのが一番のポイントなんだから」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、鍋を見つめながら静かに言った。
いつものような「ロンドンに行くわけじゃないんだから」という強がりの前置きも、「完璧にマスターしなさいよね!」という生意気なツンとした仕草もない。白ブラウスの袖を綺麗に捲り上げた彼女の横顔は、どこか吹っ切れたような、だけどひどく真剣な光を宿していた。
「……千歳」
カウンターキッチン越しに彼女を呼びかける俺の声も、自然と低くなる。
ロンドンへの赴任が白紙になり、自炊訓練という名の大義名分を失ってから、俺たちは形骸化した「幼馴染の男友達」というおままごとの殻に逃げ込み、じれったいモラトリアムを引き延ばし続けてきた。
進展することを恐れ、傷つくことを恐れて、壊してしまった境界線の前で立ち往生していた袋小路。
だが、そんな都合のいいモラトリアムも、今夜で本当に終わりだ。
俺's胸の奥で燻り続けていたドギマギとした精神的狂瀾は、もう誤魔化しようのない確信へと変わっていた。
「ほら、お皿に盛り付けたわよ。熱いうちに食べましょう」
千歳は出来立ての肉豆腐をテーブルへと運び、俺の対面に腰を下ろした。
湯気の向こう側で、二人の視線が真っ直ぐに交錯する。
彼女の大きな瞳は微かに潤んでいたが、そこにはもう、オフィスの「如月さん」の冷徹な仮面も、感情を隠すための防壁も一切存在しなかった。
「蓮」
千歳が、俺の名前を呼んだ。箸を持たない彼女の細い指先が、膝の上で静かに、だけど固く握りしめられている。
「私ね、この一週間、ずっと考えてたの。赴任がなくなって、料理を作る理由もなくなって……それでも毎晩ここに来て、あんたのためにエプロンを着て。そんなの、もう幼馴染のやることじゃないよね」
千歳は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「私、もう自分を騙したくない。あんたの『都合のいい男友達』のフリをして、傍にいられるだけでいいなんて、もう思えないの」
長すぎたモラトリアムの終着駅。
千歳が自らエプロンの紐を解くように、最後の境界線を踏み越えていく。その剥き出しの覚悟に呼応するように、俺の心臓は、これまでにないほど激しく胸の奥を打ち鳴らし始めていた。




