第3章 第30話:木曜日の焦燥、歪なモラトリアムの袋小路
木曜日の21時半。
部屋のドアが閉まる音と同時に、昼間のオフィスを支配していた冷徹な「他人のフリ」の残像が、リビングの薄暗い空気の中にドッと溢れ出してきた。
キッチンからは、香ばしい胡麻油と、じっくりと炒められた高菜の匂いが立ち上っている。
「――はい、今夜のメニューはパラパラ高菜チャーハンよ! ご飯はあらかじめ温かいものを使って、卵とスピード勝負で炒めるのが最大の秘訣なんだから。別にロンドンでベチャベチャのチャーハンを作らないための練習じゃないけど、この火力コントロールだけはちゃんと体に叩き込みなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンを熱心に揺らしながら言った。
オフィスのネイビーのジャケットをクローゼットに封印し、白ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前に人事部のデスクの前で完璧なビジネス敬語を操っていた「広報部の如月さん」とは完全に別人だった。
「チャーハンか。スピードが命なんだな。お前に散々仕込まれたから、手順は頭に入ってるよ」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次は高菜と調味料を一気に投入するプロセスよ!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンの様子を真剣に見つめる千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾に激しく引き裂かれていた。
ロンドンへの赴任が白紙になり、「海外生活のための自炊訓練」という不器用な大義名分はもう完全に消滅している。
それなのに、彼女は今日も当たり前のようにエプロンを身にまとい、俺の部屋のキッチンで料理を作っている。
お互いを特別に想い合っているという事実を曝け出し、あの夜に抱きしめ合った。
都合のいい安全な防壁はすべて粉々に砕け散ったはずなのに、いざこうして二人きりの日常に戻ると、どうしても昔ながらの「幼馴染」のトーンに逃げ込んでしまう。
想いが通じ合ったからこそ、お互いに次のステップへと踏み出すのが怖くて、形骸化したはずの「自炊訓練」という殻の中に引きこもり、じれったいモラトリアムを必死に引き延ばそうとしているのだ。
(……俺たち、いつまでこの『おままごと』を続けるんだ?)
千歳は手際よく木べらを動かしているが、その耳たぶが、コンロの熱気のせいだけではなくほんのりとした綺麗な桜色に染まっているのを、俺の目は見逃さなかった。
昼間のオフィスでは完璧に崩壊しかけている仮面を被って俺の理性を狂わせるくせに、夜の部屋ではエプロンを免罪符にして、この縮まらない距離感のなかに立ち往生している。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立てのチャーハンをテーブルへと運んだ。
香ばしい湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいく。
安全な仮面を失い、お互いに新しい関係の答えを出せないまま袋小路へと迷い込みながらも、俺たちの日常は、心地よい熱を帯びたまま、どこまでもじれったく回り続けていた。




