第3章 第29話:水曜日の微熱、甘き麻婆豆腐の迷宮
水曜日の21時半。
週の折り返しを告げる夜の部屋には、刺激的な唐辛子の辛みと、鼻腔を心地よく突く花椒の華やかな香りが満ちていた。
「――はい、今夜のメニューは本格麻婆豆腐よ! 豆腐はあらかじめ塩茹でしておくのが、崩れないようにするための最大の秘訣なんだから。別にロンドンでボロボロの豆腐料理を作らないための練習じゃないけど、このひと手間だけはちゃんと脳裏に刻みなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンの中の赤いソースを木べらで丁寧にかき混ぜながら言った。
オフィスのネイビーのジャケットをクローゼットに封印し、白ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前にデスクの前で完璧なビジネス敬語を操っていた「広報部の如月さん」とは完全に別人だった。
「麻婆豆腐か。下茹でがコツなんだな。お前に散々仕込まれたから、手順は頭に入ってるよ」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次はとろみをつけた後に強火で焼き付けるプロセスよ!」
千歳はふんす、とUserNameを鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンの様子を真剣に見つめる千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾に激しく引き裂かれていた。
ロンドンへの赴任が白紙になり、「海外生活のための自炊訓練」という不器用な大義名分はもう完全に消滅している。
それなのに、彼女は今日も当たり前のようにエプロンを身にまとい、俺の部屋のキッチンで料理を作っている。
お互いを特別に想い合っているという事実を曝け出し、あの夜に抱きしめ合った。
都合のいい安全な防壁はすべて粉々に砕け散ったはずなのに、いざこうして二人きりの日常に戻ると、どうしても昔ながらの「幼馴染」のトーンに逃げ込んでしまう。
(……あいつ、やっぱりまだ相当意識してるな)
千歳は手際よく木べらを動かしているが、その耳たぶが、唐辛子の熱気のせいだけではなくほんのりとした綺麗な桜色に染まっているのを、俺の目は見逃さなかった。
昼間のオフィスでは完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」をして俺の理性を狂わせるくせに、夜の部屋ではエプロンを免罪符にして、このじれったいモラトリアムの余韻を繋ぎ止めようと必死になっている。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立ての麻婆豆腐をテーブルへと運んだ。
スパイシーな湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいく。
安全な仮面を失い、お互いに新しい距離感の名前を測りかねて立ち往生しながらも、俺たちの新しい日常の日常は、心地よい熱を帯ばたまま、どこまでもじれったく回り続けていた。




