第3章 第28話:火曜日の揺らぎ、エプロンの紐がほどける前に
火曜日の21時半。
一日中オフィスを包んでいた張り詰めた緊張感が、俺の部屋のドアが閉まった瞬間に、静かに、だけど確実に熱を帯びた空気へと変貌を遂げていく。
キッチンからは、香ばしいごま油の香りと、爽やかなネギの匂いが立ち上っていた。
「――はい、今夜のメニューは豚肉とネギの塩麹炒めよ! 塩麹がお肉を柔らかくしてくれるの。別にロンドンでパサパサのお肉を食べないための練習じゃないんだから、調味料の漬け込み時間だけは今夜で完璧に覚えなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンの木べらを熱心に動かしながら言った。
オフィスのネイビーのジャケットをクローゼットに片付け、白ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、昼間に人事部のデスクの前で完璧なビジネス敬語を操っていた「広報部の如月さん」とは完全に別人だった。
「塩麹か。これなら味付けもシンプルだし、すぐに真似できそうだな。お前に散々仕込まれたから、手順は頭に入ってるよ」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次は焦げ付かないように火加減を調節して!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンにネギを投入する千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
ロンドンへの赴任が白紙になり、「海外生活のための自炊訓練」という不器用な大義名分はもう完全に消滅している。
それなのに、彼女は今日も当たり前のようにエプロンを身にまとい、俺の部屋のキッチンで料理を作っている。
お互いを特別に想い合っているという事実を曝け出し、あの雨の夕闇の中で指先を絡め合った。
都合のいい安全な防壁はすべて粉々に砕け散ったはずなのに、いざこうして二人きりの日常に戻ると、どうしても昔ながらの「幼馴染」のトーンに逃げ込んでしまう。
(……あいつ、やっぱりまだ相当意識してるな)
千歳は木べらを動かしているが、その耳たぶが、湯気のせいだけではなくほんのりとした綺麗な桜色に染まっているのを、俺の目は見逃さなかった。
昼間のオフィスでは完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」をして俺の理性を狂わせるくせに、夜の部屋ではエプロンを免罪符にして、このじれったいモラトリアムの余韻を繋ぎ止めようと必死になっている。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立ての塩麹炒めをテーブルへと運んだ。
香ばしい湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいく。
安全な仮面を失い、お互いに新しい距離感の名前を測りかねて立ち往生しながらも、俺たちの新しい日常の歯車は、心地よい熱を帯びたまま、どこまでもじれったく回り続けていた。




