第1章 第9話:見えない境界線、深まる秘密の影
水曜日の朝、オフィスを包む空気はいつもと変わらず慌ただしい。
俺は自席のパソコンで、上半期の業績評価データと睨み合いながら、時折、画面の隅に配置した個人用のフォルダに視線を移していた。そこには、ロンドン支社への着任に伴う各種手続きのチェックリストが格納されている。
「相馬さん、お疲れ様です。海外事業部から、渡航前のビザ申請に関わる追加書類の提出依頼が来ています。今週の金曜日までに、こちらのフォーマットに記入をお願いします」
後輩の女性社員が、声を潜めて書類の束を差し出してきた。
「ありがとう。内容は把握した。今日の夕方までに記入して、海外事業部へ回しておくよ」
俺は努めて冷静な、いつもの「人事部の相馬さん」の声を意識して返事をした。
内示を受けてから二週間以上が経過し、水面下での動きはいよいよ本格化している。引き継ぎ資料の骨子も固まりつつあり、あとは正式な社内公表のタイミングを待つばかりだ。
周囲の社員たちは誰も、俺がこのデスクから消えることなど想像すらしていない。その「完全な秘密」の当事者であるという事実は、日を追うごとに俺の胸を静かに蝕んでいた。
「――如月さん、先ほど提出していただいたプレスリリースの件ですが、広報部長からの最終ゴーサインが出ました。15時に配信をお願いします」
「承知いたしました。すぐに配信設定に入ります。ありがとうございました」
オフィスの向こう側から、千歳のクリアな声が響いてきた。
顔を上げると、彼女は非の打ち所がないビジネススマイルを浮かべ、広報部の同僚たちと手際よく作業を進めている。完璧なテーラードジャケットの着こなし、知的なハーフアップの髪、そして周囲を自然と引っ張るエースとしてのオーラ。
その姿を見つめながら、俺は胸の奥で奇妙な痛みを覚えていた。
毎晩のように俺の部屋のドアを開け、ジャケットを脱ぎ捨てて「疲れたぁ!」とソファに倒れ込むあの女と、今目の前で完璧な敬語を操るこの有能な広報部員。
その二つの姿の間に、俺自身が境界線を引き、必死にバランスを保とうとしている。
だが、その境界線自体が、もうすぐ強制的に消滅しようとしているのだ。
(もし俺がロンドンに行ったら、あいつのこの完璧な『仮面』を剥がせる奴は、社内に誰もいなくなるんだな……)
そう考えた瞬間、言いようのない独占欲と、胸を焦がすような焦燥感が同時に湧き上がってきた。
幼馴染として、あるいは「気楽な男友達」として、千歳の一番無防備な姿を独占してきたのは俺だ。その特権的なポジションが、物理的な距離によって引き裂かれる。その恐怖は、俺が想像していた以上に根深く、重いものだった。
その日の夜。
いつも通り、俺の部屋の鍵が開き、千歳が滑り込んできた。
「はー、疲れた……! 今日はマジで15時の配信直前にデータの数字がズレてて、冷や汗出まくったよ。蓮、何か冷たい飲み物。生き返るやつ、お願い」
千歳は入ってくるなりバッグをクローゼットの横へ放り投げ、リビングのソファへと身を沈めた。
「おかえり。冷えた麦茶ならある。それと、今日はちょっとだけ炭酸水も冷やしてあるぞ」
「わ、炭酸水! さすが蓮、私の好みを分かってるじゃん。やっぱり持つべきものは気が利く男友達だねぇ」
千歳は嬉しそうに目を細め、俺が差し出したグラスを両手で受け取った。
一気に半分ほどを飲み干し、ふぅ、と長い息を吐き出す。ブラウスの第一ボタンが外され、首筋の白い肌がリビングの照明に照らされていた。その無防備な姿は、昼間の「如月さん」とは完全に別人の、俺だけが知っている千歳だった。
「ねえ、蓮。今日の昼、食堂ですれ違った時にさ、蓮の隣にいた人事部の後輩の子、なんか蓮のこと凄く頼もしそうな目で見てたよ?」
千歳がグラスの氷をカランと鳴らしながら、悪戯っぽく笑った。
「は? 何の話だよ。ただの業務連絡で一緒に歩いていただけだろ」
「ふーん? でもさ、社内じゃ『冷静沈着で、何でも見抜く人事部のホープ』なんて言われてるわけだし。あの後輩の子も、相馬先輩のカッコいい仮面に騙されてるんじゃないの?」
千歳はケラケラと笑いながら、ソファの背もたれに頭を預けて天井を見上げた。
その言葉はいつものからかいだったが、今の俺には、その笑顔の裏に隠された「男友達」という防壁の頑固さが、どうしても気になって仕方がなかった。
「……千歳」
「ん? なに?」
「お前は、俺のその『仮面』を剥がすのが、そんなに楽しいのか?」
俺のトーンが少し低かったせいか、千歳の笑顔がピタリと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、不思議そうな、どこか探るような瞳で俺を見つめてくる。
「何よ、急に。楽しいっていうか……それが私と蓮の『普通』でしょ? 会社では完璧に他人のフリをして、ここに来たら全部忘れてダラだらする。この関係が一番楽だし、安全じゃん」
千歳はそう言って、グラスをテーブルに置いた。
安全。楽。
その言葉が、俺の胸に冷たく突き刺さる。
彼女はこの心地よい日常の均衡が壊れることを、誰よりも恐れているのだ。だからこそ、頑なに「男友達」という枠から出ようとせず、自分自身にも、そして俺にも言い聞かせている。
「……そうだな。ただの思いつきだ」
俺はいつものように、感情を押し殺した声で嘘をついた。
胸の奥にある秘密は、さらにその重さを増していく。
ロンドンへの出発というタイムリミットがすぐそこまで迫っていることを、彼女はまだ何も知らない。崩れ去る寸前の砂の城の上で、俺たちはこれまで通りの「日常」を必死に演じ続けていた。




