第1章 第8話:静かに歪む日常、無自覚な執着
火曜日の朝。
通勤電車の窓から差し込む朝日は眩しく、乗客たちの眠たげな顔を等しく照らしている。
俺は吊り革に掴まりながら、スマートフォンの画面でロンドンの現地の気候や、アパートメントの契約に関する英文のガイドラインを目で追っていた。
仕事の合間を縫って進める海外赴任の準備は、もはや生活の一部になりつつある。
しかし、その準備が進めば進むほど、俺の心の中に奇妙な空白が広がっていくのを感じていた。
「相馬さん、おはようございます。これ、海外事業部の担当者から預かってきた、現地の生活セットアップに関する資料です。事前に目を通しておいてくださいとのことでした」
オフィスに着くなり、同期の社員が机に書類の束を置いた。
「おはよう。助かるよ、後で確認しておく」
俺はいつもの「人事部の相馬さん」のトーンで答え、資料を受け取る。
引き出しを開けると、そこにはすでに数冊のファイルが積み重なっていた。ビザの申請状況、航空券の手配確認書、現地での業務引き継ぎスケジュール。
すべてが、俺がこの会社、そしてこの国から離れる未来を冷徹に証明している。
(あと、2週間を切ったか……)
正式な内示の公表日が近づくにつれ、胸の奥の焦燥感は日増しに強くなっていた。
人事部員として、社内の人間関係の動向や異動による心理的影響を客観的に分析するのは得意なはずだった。だが、いざ自分のこととなると、客観性などどこかへ吹き飛んでしまう。
「――如月さん、先ほどのプレスリリースの件、確認しました。非常に素晴らしい出来ですね。これで進めてください」
「ありがとうございます、部長。すぐに配信の手配に移ります」
フロアの斜め向かい、広報部のブースから千歳の澄んだ声が聞こえてきた。
彼女は今、周囲の社員たちに笑顔を振りまきながら、テキパキと指示を出している。その姿には、一寸の隙もない。会社の「顔」としての完璧な仮面だ。
昼間のオフィスで、俺たちは徹底して他人を演じる。
それが二人の間で決めた、お互いの仕事を円滑に進めるための鉄のルールだからだ。
しかし、最近はそのルールを守ることが、少しずつ息苦しくなり始めていた。
(もし俺がロンドンに行ったら、あいつは誰を相手にその仮面を脱ぐんだろうか)
そんな疑問が、不意に脳裏をよぎる。
俺のいない日常に千歳が慣れていき、別の誰かの前でビールを飲み、別の誰かに広報部の愚痴を言うようになる。
そこまで思考が進んだ瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。自分が千歳に対して、ただの「幼馴染」や「男友達」という枠を遥かに超えた、酷く独占的で醜い執着を抱いていることに気づかされ、愕然とする。
その日の夜。
いつも通り、俺の部屋のインターホンは鳴らず、聞き慣れた金属音とともにドアが開いた。
「おつかれー……。あー、今日も疲れたぁ。蓮、なんか冷たいもの、今すぐ私の体内に注入して」
入ってくるなり、千歳はパンプスを蹴り出すように脱ぎ捨て、リビングのソファへと倒れ込んだ。
「おかえり。マナーが悪いぞ。ほら、冷えた麦茶だ」
俺はグラスをローテーブルに置いた。
千歳はソファに寝転がったまま、首だけをこちらに向けてグラスを睨んだ。
「えー、今日はビールじゃないの? 私、今日はマジでビールな気分なんだけど」
「平日のこんな時間から毎日飲んでたら体が持たないだろ。お前、広報部のエースなんだから、体調管理くらいしっかりしろ」
「ちぇー、ケチ。蓮のくせに正論言わないでよ」
千歳は不満げに唇を尖らせながらも、体を起こして麦茶を一口飲んだ。
ブラウスの襟元が少し緩み、まとめられていた髪から数筋の後れ毛が首筋に落ちている。その無防備な姿は、昼間の「如月さん」とは完全に別人の、俺だけが知っている千歳だった。
「ねえ、蓮。今日の昼さ、食堂で営業部の奴らが蓮の噂してたよ」
千歳がグラスを回しながら、何気ないトーンで言った。
「俺の噂? 何だよそれ」
「なんかさ、最近の人事部の相馬さんは、いつも以上に目が笑ってなくて怖いって。何か重大な社外秘でも握りつぶしてるんじゃないかって、戦々恐々としてたよ」
千歳はケラケラと笑った。
「私は『あー、相馬さんっていつも真面目そうですもんね』って、完璧な他人のフリして話を合わせてあげたけどさ。本当は、ただ目が疲れてるだけなのにねー」
楽しそうに話す千歳の横顔を、俺はただ静かに見つめることしかできなかった。
重大な秘密。それは、間違ってはいない。
営業部の連中が恐れているようなことではないが、俺は千歳にとって最も重大な、そして残酷な秘密を、今まさにこの胸の奥に隠し持っている。
「……千歳」
「んー? 何?」
「お前さ、もし俺がいなくなったら、寂しいか?」
また、聞いてしまった。
言えない秘密の反動が、千歳への確認作業という形で、何度も口から溢れそうになる。
千歳は一瞬、動きを止め、それから呆れたように笑った。
「何それ、またその質問? 蓮、本当に最近おかしいよ。寂しいに決まってるじゃん。私の唯一の『安全基地』なんだからさ。蓮がいなくなったら、私、会社での仮面をどこで脱げばいいのよ。だから、どっこにも行っちゃダメ」
千歳はそう言って、いつものように「男友達」としての軽いノリで、俺の腕をぽんと叩いた。
だが、その瞳の奥に、一瞬だけ言葉にできないような、深い不安の色が過ったのを、俺は見逃さなかった。
「……そうだな。どこにも行かないよ」
俺はまた、千歳の目をまっすぐに見つめながら、優しい嘘をついた。
嘘を重ねるたびに、胸の奥の痛みが激しさを増していく。
カウントダウンの時計の針は、二人の静かな日常を置き去りにして、容赦なく進み続けていた。




