第1章 第7話:近づくタイムリミット、触れられない境界線
月曜日が始まり、オフィスの空気は再び週末の穏やかさを脱ぎ捨てて、張り詰めたビジネスの現場へと戻っていた。
俺のデスクの引き出しの奥には、ロンドン赴任に関する書類が、日を追うごとにその厚みを増して収められている。
「相馬さん、今週の金曜日に、海外事業部の担当者との最終打ち合わせが入りました。現地の住宅手当や初期費用の精算方法について、こちらの要望をまとめておいてください」
「わかりました。木曜日までに資料を作成して共有します」
後輩からの報告に淡々と答えながら、手元のカレンダーに目をやる。
内示が出てから二週間以上が経過した。正式な社内公表まで、あとわずか。
つまり、俺がこのオフィスで「人事部の相馬さん」として、そして千歳が「広報部の如月さん」として、完璧な他人のフリをして過ごせる日常の終わりが、いよいよ目に見える形に近づいてきているということだ。
(本当に、このままでいいのか……)
パソコンの画面に並ぶ数字を見つめながら、胸の奥にある割り切れない感情が、じわじわと痛みを伴って広がっていく。
仕事では、他人のキャリアの転機を冷徹なほど客観的に見極め、最適な配置を行う立場にいる。それが人事としてのプロフェッショナリズムだと信じてきた。
なのに、いざ自分のこと、それも千歳との関係が絡むとなると、驚くほど決断が鈍る。
「あ、如月さん。先ほどのプレスリリースの件ですが、少し修正をお願いしたくて」
「はい、何でしょうか、部長。すぐに確認いたします」
フロアの向こう側から、千歳のクリアな声が聞こえてきた。
視線を向けると、彼女は上司からの急な指示に対し、一切の動揺を見せずにメモを取っている。その凛とした佇まいは、非の打ち所がない「会社の看板」そのものだ。
彼女を見ていると、時折、奇妙な錯覚に陥る。
毎晩のように俺の部屋のソファでだらけ、ビールを片手に笑っているあの少女と、今目の前で完璧なビジネス敬語を操るこの有能な広報部員は、本当に同一人物なのだろうか、と。
千歳が作り上げた「男友達」という完璧な防壁。
それは、二人の関係を壊さないための安全なシェルターであると同時に、俺たちがそれ以上に踏み込むことを拒む、冷徹な境界線でもあった。
そして俺もまた、その居心地の良さに甘え、彼女の本心を探ることから無意識に逃げ続けていたのだ。
その日の夜、時計の針が21時半を回った頃。
いつもと変わらない軽い金属音とともに、俺の部屋のドアが開いた。
「ただいまー……。あー、疲れた。今日はマジで営業部からの無茶振りが酷くて、頭痛が痛いレベルだよ……」
入ってくるなり、千歳はバッグを床に置くと、そのまま玄関の壁に背中を預けてズルズルと座り込んでしまった。
「おかえり。頭痛が痛いのは頭が悪いからだろ。ほら、突っ立ってないで中に入れよ」
「冷たいなぁ。もうちょっとこう、幼馴染としての慈悲とか優しさとかないわけ?」
千歳は口を尖らせながらも、のろのろと立ち上がり、リビングへと進んできた。
ジャケットを脱ぎ、ブラウスの袖を雑に捲り上げる。その一連の動作で、部屋の空気が一気に「ビジネス」から「プライベート」へと塗り替えられていく。
「はい、冷たい麦茶。それともビールにするか?」
「今日はビール! がっつりアルコール入れないと、やってらんない!」
千歳はソファに深く腰掛け、俺が差し出した缶ビールを引ったくるようにして受け取った。
プシュッ、と小気味いい音が部屋に響き、彼女は勢いよく喉を鳴らしてビールを流し込んでいく。
「んん――っ! 美味しい! やっぱり蓮の部屋のビールが世界で一番美味しいわ」
「ただの市販の缶ビールだろ。どこで飲んでも味は同じだ」
「違うの! この、仕事の仮面を全部脱ぎ捨てて、なんの気遣いもいらない『男友達』の前で飲むから美味しいの! 蓮にはこの極上の解放感が分かんないかなぁ」
千歳はゲラゲラと笑いながら、ソファの背もたれに頭を預けて天井を見上げた。
その無防備な笑顔、完全に緩みきった表情。
俺はその姿を、カウンターキッチン越しにじっと見つめていた。
この景色が、もうすぐ失われる。
あと数週間もすれば、この部屋は引き払い、俺は言葉も通じない遠い異国の地へと旅立つ。
「……千歳」
「んー? 何?」
ビール缶を持ったまま、千歳が不思議そうにこちらに視線を向けた。
「お前、本当に俺が『男友達』でいいのか?」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
千歳は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、それから可笑しそうに吹き出した。
「はは、何それ! 急に深いこと聞くじゃん。いいに決まってるでしょ。蓮以上の男友達なんて、この世のどこを探してもいないよ。気は使わないし、口は悪いけどご飯は美味しいし。最高のポジションだよ」
「……そうか」
俺は小さく頷き、視線を自分の手元に落とした。
最高のポジション。
それは裏を返せば、決して「それ以上」にはなれない、都合の良い境界線の内側という意味だ。
千歳は、この安全な関係性が壊れることを誰よりも恐れている。だからこそ、頑なに「男友達」という言葉を使い、自分自身にも、そして俺にも言い聞かせているのだろう。
「蓮、なんか今日、変に真面目だね。どうかした? 本当に会社で嫌なことでもあった?」
千歳が少し心配そうな目を向けてくる。
「いや、なんでもない。ただの思いつきだ」
俺はいつものように、感情を押し殺した声で嘘をついた。
タイムリミットの足音は、確実に大きくなっている。
その現実を告げられないまま、俺たちは、崩れ去る寸前の砂の城の上で、これまで通りの日常を演じ続けていた。




