第1章 第10話:重なる影、数え切れない日常の破片
木曜日の午後。オフィスの窓外には、初夏を予感させる抜けるような青空が広がっていた。
だが、その眩しさは、俺の視神経をチクチクと刺激するだけで、胸の奥の曇りを晴らしてはくれない。
「相馬さん、ロンドン支社の現地スタッフ向けに作成した、引き継ぎ用の組織図マニュアルです。先ほど海外事業部から承認が下りたので、こちらのファイルに格納しておきました」
「ありがとう。確認するよ」
自席のパソコンを操作しながら、後輩から共有されたデータを開く。
画面に並ぶのは、英語で表記された現地の役職名と、俺がこれから担当することになる労務管理のタイムラインだ。内示を受けてからというもの、こうして日々「ロンドン仕様」に変えられていく自分の業務データを見つめるたび、自分がこの会社から、そして日本から切り離される実感がリアルな質量を伴って迫ってくる。
正式な社内公表まで、あと1週間と少し。
その瞬間が来れば、この静かな水面下の準備は終わりを告げ、周囲の誰もが俺を「海外へ行く男」として見るようになる。そしてそれは当然、広報部にいる千歳の耳にも届く。
(……その時、あいつはどんな顔をするんだろうな)
無意識にキーボードを叩く手が止まり、視線が泳ぐ。
人事部員として、社内の人員動向を誰よりも早く知る特権的な立場にいるはずなのに、今、自分が抱えている「最大の機密」が、一番知ってほしい相手を傷つけるかもしれないという矛盾に、俺は日々苛まれていた。
「あ、如月さん。明日の役員会議用のプレスリリース、広報部としての最終チェックは終わっていますか?」
「はい、終わっております。データは先ほど共有フォルダにアップロードいたしましたので、いつでもご確認いただけます」
フロアの向こう側、間仕切りの向こうから、聞き慣れた、だけどどこまでもビジネスライクな声が響く。
千歳は今、他部署の先輩社員を相手に、完璧なビジネススマイルを浮かべながら応対していた。隙のないネイビーのジャケット、上品にまとめられた髪。社内の誰もが羨む「広報部のエース」の姿だ。
その姿を見つめながら、俺は胸の奥で、じりじりと焼けるような独占欲と焦燥感を覚えていた。
夜になれば、あの女は俺の部屋で「もう仕事したくない!」と管を巻き、冷たい麦茶やビールを喉に流し込む。その、世界の誰も知らない無防備な千歳を独占しているのは俺だという自負が、「男友達」という薄い仮面の内側で、歪んだ執着へと変わりつつあった。
だが、その特権も、この物理的な距離によって終わりを迎える。
俺がロンドンへ行けば、あの部屋での日常は消滅し、千歳はまた別の誰かの前でその仮面を脱ぐようになるのかもしれない。その可能性を思考が捉えた瞬間、胸の奥が冷たく凍りつくような恐怖を覚えた。
その日の夜、21時を少し回った頃。
ガチャリ、と静かな部屋にシリンダーが回る音が響き、ドアが開いた。
「おつかれー……。あー、今日も疲れた! 蓮、今すぐ私に冷たい炭酸水を補給して!」
入ってくるなり、千歳はバッグをクローゼットの横へ放り投げ、リビングのソファへとダイブした。
「おかえり。マナーが悪いぞ。ほら、冷えた炭酸水だ」
俺はグラスをローテーブルに置いた。
千歳はソファから這い上がるようにして体を起こし、グラスを両手で受け取ると、一気に半分ほどを飲み干した。
「ぷはーっ! 生き返る……! やっぱり仕事終わりのこれは最高だね。蓮、今日のご飯は何?」
「今日は、簡単に肉野菜炒めと、昨日の中華スープの残りだ。今温めるから、ちょっと待ってろ」
「わーい! 蓮の肉野菜炒め、味が濃いめで好きなんだよね」
千歳は嬉しそうに目を細め、テレビのリモコンをいじり始めた。
その無防備な横顔。昼間の「如月さん」とは完全に別人の、俺だけが知っている千歳の姿。
俺はカウンターキッチンに立ち、フライパンに火をかけながら、彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。
この景色は、あと何回見られるのだろう。
この何気ない、だけど何よりも愛おしい日常の破片は、あといくつ、俺たちの手元に残されているのだろう。
「……千歳」
「ん? なにー?」
千歳がリモコンを持ったまま、不思議そうに振り返る。
「お前さ、もし明日地球が滅びるとしたら、最後に何が食べたい?」
「はあ? 何それ、急に。蓮、本当に最近変な質問ばっかりするよね」
千歳は呆れたように笑い、しばらく考えた。
「うーん……やっぱり、蓮が作ったチャーハンかなぁ。なんだかんだで、一番食べ慣れてるし、ホッとするからね」
「……そうか」
千歳は何の疑いもなく、笑っている。
この心地よくて安全な日常が、明日も、明後日も、来月も、ずっと続いていくことを信じて疑っていない。
「男友達」という、彼女が作り上げた完璧な防壁の中で、彼女は安心しきっているのだ。
俺はその笑顔が眩しくて、そしてどうしようもなく切なくて、フライパンを煽る手にいつも以上の力を込めることしかできなかった。
胸の奥にある秘密は、刻一刻とその重さを増していく。
ロンドンへの出発というタイムリミットがすぐそこまで迫っていることを、彼女はまだ何も知らない。崩れ去る寸前の砂の城の上で、俺たちはこれまで通りの「日常」を、ただ必死に演じ続けていた。




