第1章 第11話:夜の静寂、ガラス細工のモラトリアム
金曜日の夜。一週間の激務を終えたオフィス街は、週末の解放感に浮き足立つ人々の熱気で満ちていた。
だが、俺が胸に抱える「ロンドン赴任」という秘密は、周囲の賑やかさが増せば増すほど、冷たく、重く、その存在感を主張してくる。
「相馬さん、お疲れ様。今週中に海外事業部へ提出するはずだったビザ関連の書類、すべて不備なく受理されたよ。これで渡航手続きの第一段階はクリアだね」
帰り際、人事部の先輩が声を潜めてそう教えてくれた。
「ありがとうございます、先輩。お手数をおかけしました」
俺はいつもの「真面目で堅実な人事部員」の仮面を崩さず、静かに頭を下げた。
手続きは着実に進んでいる。外堀は完全に埋まりつつあり、あとは1週間後に迫った正式な社内公表を待つばかり。すなわち、俺がこの会社で千歳と「完璧な他人のフリ」を続けられるタイムリミットも、残り1週間少々ということだ。
(……来週の今頃には、すべてが変わっているんだな)
そんな焦燥感を振り払うように、俺は足早にマンションへと帰宅した。
スーツを脱ぎ捨て、ネクタイを外して深く息を吐き出す。少し遅れて、いつものように軽い金属音とともに玄関の鍵が開いた。
「おつかれさまぁ……。今週もマジで生き抜いたよ、私……」
入ってくるなり、千歳は玄関にバッグを置くと、力なくリビングのソファへ倒れ込んできた。
金曜日の夜ということもあって、その疲労感はいつも以上だ。会社の「顔」として一週間完璧な笑顔を振りまき続けた反動が、今、この部屋で一気に噴き出している。
「おかえり。一週間お疲れ。ほら、今日は金曜日だからな」
俺は冷蔵庫から、しっかりと冷やしておいた缶ビールを二本取り出し、ローテーブルに置いた。
千歳はソファから這い上がるようにして体を起こすと、嬉しそうに目を輝かせた。
「わあ、ビール! さすが蓮、金曜日の私の生態を完璧に理解してるじゃん!」
プシュッ、と心地よい音が二つ重なり、千歳は勢いよく喉を鳴らしてビールを流し込んだ。
「ぷはぁーっ……! 染み渡る……! やっぱり金曜日の夜に、蓮の部屋で飲むビールが一番の贅沢だわ」
千歳はソファの背もたれに頭を乗せ、完全に脱力した様子で天井を見上げた。
ブラウスの第一ボタンが外され、きっちりとまとめられていたハーフアップの髪はすでに解かれ、柔らかな毛先が肩に散らばっている。オフィスの誰も知らない、俺だけが知っている「如月千歳」の姿がそこにあった。
「ねえ、蓮。今日の昼さ、エレベーターの前で人事部長とすれ違ったんだけど」
千歳がビール缶を両手で転がしながら、何気ないトーンで言った。
「長谷川部長と? 何か言われたか?」
「ううん、別に。ただ、部長が私の顔を見て、なんか妙に優しい目をして『如月さん、いつも広報の仕事、頑張ってくれてありがとうね』って言ってきたの。普段はもっと威厳がある感じなのに、急に労われたから、なんか裏でもあるのかなってちょっと怖くなっちゃった」
千歳はケラケラと笑っている。
その言葉に、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
長谷川部長は知っているのだ。俺と千歳が幼馴染であることも、そして俺のロンドン赴任によって、この二人の日常が引き裂かれることも。あの優しい目は、人事部のトップとしての、千歳に対する無意識の同情と配慮だったのだろう。
「……ただの気のせいだろ。お前が今期も広報として良い実績を出してるから、純粋に褒めてくれただけだ」
俺は喉の奥の渇きを紛らわせるように、自分のビールを口にした。
「ふーん、まあそれならいいんだけどさ。あ、そうだ。今日のご飯は何? 私、金曜日だからガッツリしたものが食べたい!」
千歳はすぐに次の話題へ移り、期待に満ちた目で俺を見てくる。
「今日は、唐揚げを揚げておいた。あとは簡単なサラダだ」
「やったぁ! 蓮の唐揚げ、衣がサクサクでジューシーだから大好きなんだよね!」
千歳は子供のように歓声を上げ、カウンターキッチンから運ばれてきた皿を嬉しそうに迎え入れた。
何の疑いもなく、笑っている。この心地よくて安全な「男友達」という防壁の内側で、この日常が来月も、再来月も、ずっと続いていくことを信じて疑っていない。
俺はその笑顔を見つめながら、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えていた。
このガラス細工のように繊細で、だけど何よりも愛おしいモラトリアムの時間は、あと数日で粉々に砕け散る。その現実を自分の口から告げることもできず、俺はただ、彼女の隣でこれまで通りの「日常」を必死に演じ続けることしかできなかった。




