第1章 第12話:週末の残り香、静かに迫る月曜日
土曜日の午後。いつもなら仕事の緊張感から完全に解放され、一週間で最も穏やかな時間が流れているはずのひととき。
しかし、俺の部屋のデスクの上に置かれたノートパソコンの画面には、ロンドン支社の周辺地図や、現地での生活費の目安をまとめたポータルサイトのページが開かれていた。
「……やっぱり、物価はかなり高いな」
独り言を呟きながら、画面をスクロールする。
内示を受けてからというもの、俺の週末はこうした「見えない準備」に少しずつ侵食されていた。現地の治安情報を調べ、必要な持ち物のリストを作り、英文の契約書の文面を頭に叩き込む。
手続きが一つ進むたびに、日本での自分の足場が少しずつ削り取られていくような、奇妙な喪失感が胸を過る。
正式な社内公表まで、あと一週間。
週が明ければ、そのカウントダウンはいよいよ最終局面に突入する。人事部内での引き継ぎ作業も本格化し、俺が「異動する人間」であることが、隠しきれない空気として周囲に伝わり始めるだろう。
ピンポーン、と不意にインターホンが鳴った。
平日の夜のように勝手に鍵を開けて入ってくるのではなく、昼間にこうして律儀にチャットもなしに訪ねてくるのは、少し珍しい。
ドアを開けると、そこにはTシャツにロングスカートという、完全な私服姿の千歳が立っていた。
手には、近所のベーカリーの小さな紙袋を下げている。
「よ、お疲れ。ちょっと買いすぎちゃったから、お裾分け」
「千歳か。わざわざどうしたんだよ」
「どうしたんだよって、隣の幼馴染が美味しいパンを持ってきたんだから、そこは笑顔で迎え入れるべきでしょ」
千歳はフフッと笑うと、俺の脇をすり抜けて器用に部屋へと上がってきた。
昼間の光の中で見る千歳は、オフィスの「如月さん」とも、平日の夜の「だらけた千歳」とも違う、どこか懐かしい幼馴染の少女の面影を強く残している。
「あ、蓮、またパソコン開いて仕事? 相変わらず真面目だねぇ。たまには週末くらい、脳みそを完全にオフにしなよ」
千歳はダイニングテーブルに紙袋を置きながら、俺のデスクの方をチラリと見た。
俺は心臓が一瞬跳ねるのを感じながら、自然な動作でノートパソコンの画面をパタンと閉じた。
「いや、ちょっと気になるデータがあっただけだ。別に大したことしてないよ」
「ふーん? 人事部って本当に大変なんだね。ほら、これ。ここのクロワッサン、焼き立てだとすごく美味しいんだから。早くコーヒー淹れてよ」
千歳はソファに腰掛け、嬉しそうに紙袋からパンを取り出し始めた。
何の疑いもなく、俺の部屋の空気を吸い、リラックスしている。この週末の穏やかな時間が、来週も、再来週も、その先もずっと当たり前に続いていくと信じて疑っていない。
俺はキッチンに立ち、コーヒーメーカーをセットした。
豆が挽かれるゴリゴリという鈍い音が、静かな部屋に響き渡る。
(……この部屋を片付ける日も、そう遠くないんだな)
コーヒーの香りが漂い始める中、俺は自分の胸の奥にある秘密の重さに、改めて押しつぶされそうになっていた。
千歳にロンドン行きを告げたとき、この部屋で過ごす週末の時間はどうなってしまうのだろう。彼女は怒るだろうか、それとも悲しむだろうか。それすらも分からず、ただタイムリミットだけが容赦なく近づいてくる。
「蓮、コーヒーまだー? パンが冷めちゃうんだけど」
「今淹れてる。せっかちだな、お前は」
俺は淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、リビングへと運んだ。
千歳は「わーい」と声を上げ、クロワッサンを小さくちぎって口に運ぶ。その美味しそうに目を細める横顔を、俺はただ、網膜に焼き付けるようにじっと見つめていた。
迫り来る月曜日。そして、その先に待つ日常の崩壊。
何も知らない千歳の笑顔の裏で、俺の胸の中の砂時計は、最後のサラサラとした音を立てて落ち続けていた。




