第1章 第13話:週明けの静寂、張り詰められた糸
月曜日の朝。いつもと同じように、一週間の始まりを告げるアラームが鳴り響く。
俺はベッドから起き上がり、鏡の前でいつも通りにスーツを着こなし、ネクタイを隙なく結んだ。
「……よし」
小さく呟き、鏡の中の「人事部の相馬さん」の顔を確認する。
内示を受けてから三週間近くが経過し、カレンダーの針はいよいよ正式な社内公表の週へと突入していた。人事部内での引き継ぎスケジュールの策定も最終段階に入り、俺のデスクの周りには、どことなく張り詰めた空気が漂い始めている。
「相馬さん、おはようございます。海外事業部から、現地での社宅の手配が完了したと連絡がありました。間取り等の詳細データがメールで届いていますので、お時間のある時にご確認ください」
出社するなり、後輩の女性社員が声を潜めてデスクに近づいてきた。
「おはよう。分かった、午前中の会議が終わり次第、すぐに目を通しておくよ」
俺は努めてフラットなトーンで返し、パソコンの画面を立ち上げた。
メールボックスを開くと、確かに『ロンドン支社赴任に伴う住居決定のご案内』という件名のメールが届いている。添付されたPDFを開くと、見慣れない外国の間取り図と、現地の街並みの写真が並んでいた。
(本当に、もうすぐそこまで来ているんだな……)
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるように渇く。
サラリーマンとしてのステップアップとしては、これ以上ない最高の機会だ。人事としてのキャリアを大きく広げられることは間違いない。
だが、その未来が確定していくたびに、俺の心は激しく揺れ動いていた。このオフィスで、そしてあの部屋で千歳と過ごす「今」という時間が、どれほど自分にとってかけがえのないものだったかを、失う直前になって嫌というほど思い知らされている。
「――如月さん、先週提出してもらったプレリリースの反響データ、綺麗にまとまってるね。ありがとう」
「とんでもございません、部長。営業部との連携がスムーズにいったおかげです。次回の配信についても、すでにタイムラインを組んでおります」
フロアの向こう側、広報部のデスクから千歳のハキハキとした声が聞こえてきた。
視線を向けると、彼女はいつも通り、一寸の隙もないネイビーのジャケットを身にまとい、知的なハーフアップの髪を揺らしながら上司と会話を交わしている。その表情は、誰もが信頼を寄せる「広報のエース」そのものだ。
完璧な他人のフリ。完璧なビジネス敬語。
周囲の社員たちは、誰も俺たちの関係に気づいていないし、俺がもうすぐこのフロアからいなくなることにも気づいていない。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今日の俺の胸を、いつもより少し深くチクリと刺した。
夜になれば、あの女は俺の部屋で「もうマジで脳みそ溶ける!」と叫びながらビールを煽るのだ。その落差にいつも救われていたはずなのに、今はその落差の終わりが近づいていることに、ただただ焦燥感だけが募っていく。
もし、この鉄のルールで守られた日常が崩壊すると知ったら。
千歳は、その時も「広報部の如月さん」の仮面を被り続けられるのだろうか。それとも――。
手元の社宅のデータを静かに閉じ、俺はキーボードに指を置いた。
言えない秘密の重みは、いよいよ限界まで膨らみつつある。迫り来るタイムリミットの足音を胸の奥で聞きながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、崩れかけの日常を演じ続けるしかなかった。




