第3章 第26話:月曜日の錯綜、オフィスに溶ける香辛料の残像
月曜日の午前9時。
新しい一週間が始まり、いつものように目まぐるしい業務の波がフロアを飲み込んでいく。
俺は人事部のデスクで、週末に確定した国内研修プログラムの実施要項をPCの画面に展開していた。ロンドン赴任の予定が白紙撤回されてから、デスクの足元を占領していた段ボール箱は完全に姿を消し、手元にあるのは期限の存在しない日常の書類だけだ。
終わりのない、当たり前の国内業務。
だが、俺の胸の奥を激しく乱すドギマギとした精神的狂瀾は、あのタイムリミットに追われていた日々よりも確実にその熱量を増していた。
昨夜、俺の部屋のキッチンに満ちていたキーマカレーのスパイシーな残り香が、まだ鼻腔の奥にこびりついて離れない。
エプロンを免罪符にして強気に木べらを動かしながらも、耳たぶを真っ赤に染めていた千歳の横顔が、PCの無機質な文字の向こう側に何度もフラッシュバックする。
「――如月さん、先ほど役員会から降りてきた広報スケジュールですが、人事部側の配置プランとすり合わせを……」
「はい、承知いたしました。ただちに確認し、共有フォルダーへ格納しておきます」
広報部のブースから、千歳の凛とした声が響いてきた。
一寸の隙もないネイビーのジャケット、知的にまとめられたハーフアップの髪。彼女は周囲の社員から絶大な信頼を寄せられる「広報のエース」の仮面を、今日も完璧に着こなしている。
数分後、カツカツと小気味よいヒールの音がこちらへ近づき、俺のデスクの前でピタリと止まった。
「人事部の相馬さん、お疲れ様です。こちらが広報部側の修正データとなります。ご確認をお願いいたします」
千歳は一礼し、クリアファイルを差し出してきた。
言葉遣いは完璧なビジネス敬語。表情も凛としていて、周囲の目にはただの「業務連絡を行う二人の社員」にしか映らないだろう。
だが、差し出されたファイルを受け取ろうとしたその瞬間、俺の指先が、彼女の細い指先に微かに触れた。
――ビクッ、と千歳の身体が小さく跳ね上がった。
千歳は表情こそ崩さなかったが、まっすぐに俺を見つめるその大きな瞳の奥が、激しく、そして切なげにゆらゆらと揺らめいた。
土曜日の夕闇の中で、雨音を聞きながらお互いの本音を曝け出し、ぎゅっと握り合ったあの指先の熱量が、オフィス用の鉄の仮面の隙間から一瞬だけ溢れ出しそうになる。
他人のフリをするための「もうすぐいなくなる遠い人」という大義名分を失った今、この完璧なビジネス敬語の応酬すら、お互いの感情を覆い隠すための酷く脆いガラス細工の防壁のようだった。
「……ありがとう、如月さん。すぐに目を通して、夕方までにフィードバックするよ」
「はい。よろしく、お願いいたします」
千歳はそれだけ言うと、深く一度だけ瞬きをし、翻るように去っていった。
すれ違いざま、オフィスの無機質な空気の中に、彼女の少し甘い香水の匂いが鮮烈に溶けていく。昨夜のカレーのスパイスと、彼女の体温の記憶が混ざり合い、俺の理性を激しくかき乱した。
周囲の誰もが俺たちの赴任中止を「ただの業務変更」として片付け、通り過ぎていく戦場のようなオフィス。
しかし、大義名分をすべて失い、お互いを特別に想い合っているという事実を知ってしまった俺たちにとって、この「徹底された他人のフリ」は、内側から溶け出す熱量でもう限界を迎えつつあった。




