第3章 第25話:日曜日の憂鬱、エプロンが待つ焦燥
土曜日の激しい雨が嘘のように、日曜日の夜は重く湿った静寂に包まれていた。
21時半。
明日からまた始まる一週間を前に、俺の部屋のキッチンには、じっくりと炒められた玉ねぎと、どこか異国情緒を漂わせるスパイスの芳醇な香りが充満していた。
「――はい、今夜のメニューはキーマカレーよ! 水分を飛ばして旨味を凝縮させるの。別にロンドンのアパートで一人で寂しく食べるためのメニューじゃないんだから、挽肉の炒め加減はあんたの好きなようにしなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンの木べらを熱心に動かしながら言った。
オフィスのネイビーのジャケットをクローゼットに片付け、白ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、いつかのオフィスで完璧なビジネス敬語を操っていた「広報部の如月さん」とは完全に別人だった。
「キーマカレーか。普通のカレーより工程が少なくて作りやすいな。お前に散々仕込まれたから、手順は頭に入ってるよ」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次はスパイスを合わせるわよ!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンにカレーパウダーを回し入れる千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾に激しく引き裂かれていた。
ロンドンへの赴任が白紙になり、「海外生活のための自炊訓練」という不器用な大義名分はもう完全に消滅している。
それなのに、彼女は今日も当たり前のようにエプロンを身にまとい、俺の部屋のキッチンで料理を作っている。
お互いを特別に想い合っているという事実を曝け出し、あの雨の夕闇の中で指先を絡め合った。
都合のいい安全な防壁はすべて粉々に砕け散ったはずなのに、いざこうして二人きりの日常に戻ると、どうしても昔ながらの「幼馴染」のトーンに逃げ込んでしまう。
(……あいつ、やっぱりまだ相当意識してるな)
千歳は木べらを動かしているが、その耳たぶが、湯気のせいだけではなくほんのりとした綺麗な桜色に染まっているのを、俺の目は見逃さなかった。
明日になれば、また月曜日のオフィスが始まる。完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」をして俺の理性を狂わせるくせに、夜の部屋ではエプロンを免罪符にして、このじれったいモラトリアムの余韻を繋ぎ止めようと必死になっている。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立てのキーマカレーをテーブルへと運んだ。
スパイシーな湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいく。
安全な仮面を失い、お互いに新しい距離感の名前を測りかねて立ち往生しながらも、俺たちの新しい日常の歯車は、心地よい熱を帯びたまま、どこまでもじれったく回り続けていた。




