第3章 第24話:土曜日の夕闇、ほどけない指先
窓の外を濡らす雨の音は、夕刻が近づくにつれてさらにその低音を増し、部屋の中を深い濃紺の影で満たしていった。
照明もつけないままの薄暗いリビングで、俺と千歳は、ローテーブルを挟んで数センチという、あまりにも近すぎる距離に座ったまま動けずにいた。
実家から送られてきたという和菓子には、お互いにほとんど手を付けていない。
淹れたてだったはずの緑茶は、とうに冷めきってしまっていた。
「……大義名分がなくなったら、私、あんたの前にどんな顔して座ってたらいいのか、急に分からなくなっちゃって」
千歳がぽつりと溢したその言葉の余韻が、雨音に混ざりながら、じりじりと俺の胸の奥を焦がし続けている。
エプロンという名の防壁を外し、髪をお団子頭に緩くまとめただけの彼女は、オフィスの完璧な「如月さん」とも、これまでの強気な「幼馴染」とも違う。ただ俺の隣にいたいという本音だけで、そこに佇んでいた。
「千歳」
俺は少し掠れた声で、彼女の名前を呼んだ。
「な、何よ……」
千歳はビクッと肩を揺らし、俯いていた顔をゆっくりと上げた。薄暗い夕闇の中でも、彼女の大きな瞳が濡れたようにきらきらと光っているのがよく分かる。
俺は迷うのをやめ、膝の上で固く絡められていた彼女の細い手を、上からそっと包み込むように握りしめた。
「あ……」と千歳の唇から小さな吐息が漏れる。
彼女の手は、驚くほど冷たくなっていた。雨の冷気のせいだけではない、自分の本音を曝け出してしまった後の、逃げ場のない緊張のせいだ。
だが、千歳はその手を引こうとはしなかった。それどころか、俺の体温を確かめるように、震える指先で俺の手のひらをぎゅっと握り返してきた。
「顔なんて、いつも通りでいいんだよ」
俺は握る手に少しだけ力を込めながら、彼女の潤んだ瞳をまっすぐに見つめた。
「ロンドンに行くっていう理由がなくなっても、俺がここにいてほしいのはお前だし、お前がここに来たいと思ってくれたなら、それだけでいい。無理に『幼馴染の男友達』に戻る必要なんて、最初から一ミリもないんだからな」
「……ずるいよ、蓮」
千歳は、握られた手をさらに強く握り返しながら、泣き出しそうな声を絞り出した。
「そんなこと言われたら、私……明日からの会社で、どんな顔してあんたの横を通り過ぎればいいのよ。ただの同僚のフリなんて、もうできるわけないじゃない……」
完璧に崩壊してしまった「他人のフリ」の境界線。
想いが通じ合い、安全な仮面をすべて失ってしまったからこそ、お互いの存在がドギマギとした激しい精神的狂瀾となって理性を激しく揺さぶる。
絡み合う指先から伝わる千歳の確かな熱量が、雨の日の静寂の中で、どこまでも深く、じれったく溶け合い続けていた。




