第3章 第23話:土曜日の雨音、エプロンを外した二人の午後
土曜日の14時。
窓の外は、梅雨の始まりを予感させるしっとりとした雨が降っていた。
リズミカルに窓を叩く雨音だけが、静かな部屋に響いている。
「……はい、これ。今日はね、私の実家から送られてきた銘菓。自炊はお休み」
ローテーブルの上に、千歳が丁寧に包まれた和菓子の箱を置いた。
今日、彼女の腰にはあの淡いピンク色のエプロンは巻かれていない。落ち着いたサマーニットに、柔らかなロングスカート。お団子頭にゆるくまとめた髪から覗く首筋が、部屋の薄明かりの中で白い。
ロンドンへの赴任が白紙になり、終わりの決まったカウントダウンは完全に消滅した。
そして、毎晩のようにこの部屋で繰り広げられていた「海外赴任のための自炊訓練」という大義名分も、もうここには存在しない。
それでも、千歳は土曜日の昼下がりに、当然のような顔をして俺の部屋にいる。
「ありがとな。お茶淹れるよ」
「うん……。お願い」
キッチンで急須に湯を注ぐ音が、いつもより低く、重く響く。
お互いに、これまでの「幼馴染の男友達」と「広報部のエース」という安全な境界線を自らの手で壊してしまった。だからこそ、エプロンという免罪符すら持たない状態で並んで座ると、どうやって会話を組み立てればいいのかが分からなくなってしまう。
湯呑みをテーブルに置き、俺は千歳の少し隣に腰掛けた。
「あのさ、蓮……」
千歳が和菓子に手を伸ばさないまま、膝の上で細い指先をぎゅっと絡ませ、ぽつりと言った。
「雨、ひどくなってきたね」
「ああ。しばらく止みそうにないな」
「うん。……変だよね」
千歳は自嘲気味に小さく微笑んだ。だが、その大きな瞳の奥には、ドギマギとした激しい精神的狂瀾が隠しきれずに揺らめいている。
「これまでは、次に作るメニューのこととか、ロンドンに持って行く調味料のこととか、話すことが山ほどあったのに。……大義名分がなくなったら、私、あんたの前にどんな顔して座ってたらいいのか、急に分からなくなっちゃって」
千歳はゆっくりと顔を上げ、少し潤んだ瞳でまっすぐに俺を見つめた。
昼間のオフィスで見せる、完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」。そして、夜の部屋で本音を曝け出し合ったあの体温の記憶。
そのすべてが、この静かな雨音の中で混ざり合い、二人の間の空気をじりじりと焦がしていく。
安全な仮面を失い、お互いを特別に想い合っているという剥き出しの事実だけを抱えた俺たちは、この心地よくも息苦しい沈黙の中で、新しい距離感の名前を求めて、ただじれったく立ち往生していた。




