第3章 第22話:金曜日の斜光、終わらないモラトリアムの残熱
金曜日の15時。オフィスを斜めに差し込む午後の光は、どこか退廃的な美しさでデスクの上を照らしていた。
俺は人事部のデスクで、国内業務に完全に切り替わった来期の人員配置確定書をクリアファイルにまとめていた。
本来ならロンドンへ向けて日本を発っているはずだった週末が、すぐ目の前まで迫っている。手元にあるのは段ボール箱ではなく、いつも通りの日常の書類の山だ。あんなに俺たちを追い詰めていたタイムリミットの砂時計は、もう跡形もなく砕け散っている。
「――如月さん、先ほど修正していただいた広報部側の配置スケジュール、これで確定で進めます」
「承知いたしました。すぐに共有フォルダーへ格納しておきます」
共有スペースの入り口で、千歳は一寸の隙もない完璧なビジネススマイルを浮かべ、コクリと丁寧に頭を下げた。
その瞳には、昨夜俺の部屋のキッチンで、中華炒めの湯気に顔を赤らめていた面影など微塵もない。
徹底された他人のフリ。完璧なビジネス敬語。
だが、その鉄の仮面の裏側で、俺たちの境界線がもう二度と元には戻らないほど融解していることを、俺たちだけが知っていた。
すね違いざま、千歳のジャケットの袖口が、俺の腕にかすかに触れた。
ほんの一瞬、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、オフィスの無機質な空気の中に溶けていく。
千歳はそのまま真っ直ぐに廊下を歩き去り、一度も振り返ることはなかった。
その徹底された「仮面」の冷たさに、俺は胸の奥をチクリと刺されながらも、その裏にある彼女の隠しきれない熱情を痛いほどに感じていた。
その数時間後。夜の21時半を回った俺の部屋。
昼間の冷徹なビジネスライクが嘘のように、キッチンからはジュー、という小気味よい音が響いていた。
「いい、蓮? 今夜は週末前の、ちょっと特別なチキンカツよ! 別にロンドンに行くわけじゃないけど、衣をサクサクに揚げる火加減くらいは、大人の嗜みとして完璧にマスターしなさいよね!」
千歳は淡いピンク色のエプロンを身にまとい、鍋の中身を心配そうに覗き込んでいた。
会社のジャケットを脱ぎ、ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、昼間の「広報のエース、如月さん」とは完全に別人だった。
「分かってるよ。狐色になるまでじっくり揚げるんだろ。お前に散々仕込まれたからな」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次はソースの準備をして!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張った。
その言葉はいつものように強気だったが、油のパチパチという音に紛れて、彼女の横顔がほんのりとした桜色に染まっているのを、俺の目は見逃さなかった。
ロンドン赴任という最大の大義名分を失っても、彼女はこうしてエプロンを着て、俺の部屋にやってくる。
「男友達」というガラス細工の防壁を自ら粉砕してしまったからこそ、今度は隣に並ぶだけで、指先が触れそうになるだけで、お互いにどうしようもなく照れくさくなってしまうのだ。
「はい、じゃあお皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
言えない本心を隠すための盾を失い、お互いに新しい距離感を測りかねて立ち往生している。
運命のタイムリミットが消え去った世界で、二人のじれったいモラトリアムは、香ばしい揚げ物の香りと一緒に、どこまでも深く、熱く煮詰まり続けていた。




