第3章 第21話:木曜日の夜、名前のない甘いおさらい
木曜日の21時半。
オフィスでのあの張り詰めた視線の交錯から数時間後、俺の部屋のキッチンには、香ばしい胡麻油の香りと、中華出汁の優しい匂いが立ち上っていた。
「――はい、今夜のメニューは豚肉と白菜の中華炒めよ! 別にロンドンに行くわけじゃないから、手際が悪くたって私は困らないけど、野菜のシャキシャキ感を残す火加減だけは今夜で完全に覚えなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンを熱心に揺らしながら言った。
オフィスのネイビーのジャケットをクローゼットに片付け、白ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前にデスクの前で完璧なビジネス敬語を操っていた「広報部の如月さん」とは完全に別人だった。
「中華炒めか。強火で一気に仕上げるのがコツなんだろ。あの日々にお前に散々叩き込まれたから、手順は頭に入ってるよ」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次は調味料を合わせるわよ!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンにオイスターソースを回し入れる千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
ロンドン赴任が白紙になり、「海外生活のための自炊訓練」という不器用な大義名分はもう完全に消滅している。
それなのに、彼女は今日も当たり前のようにエプロンを身にまとい、俺の部屋のキッチンで料理を作っている。
お互いを特別に想い合っているという事実を曝け出し、あの夜に抱きしめ合った。
都合のいい安全な防壁はすべて粉々に砕け散ったはずなのに、いざこうして二人きりの日常に戻ると、どうしても昔ながらの「幼馴染」のトーンに逃げ込んでしまう。
(……あいつ、やっぱりまだ相当意識してるな)
千歳は木べらを動かしているが、その耳たぶが、湯気のせいだけではなくほんのりとした綺麗な桜色に染まっているのを、俺の目は見逃さなかった。
昼間のオフィスでは完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」をして俺の理性を狂わせるくせに、夜の部屋ではエプロンを免罪符にして、このじれったいモラトリアムの余韻を繋ぎ止めようと必死になっている。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立ての中華炒めをテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいく。
安全な仮面を失い、お互いに新しい距離感の名前を測りかねて立ち往生しながらも、俺たちの新しい日常の日常は、心地よい熱を帯びたまま、どこまでもじれったく回り続けていた。




