第3章 第20話:木曜日の他人のフリ、崩壊するビジネス敬語
木曜日の14時。オフィスを包む空気は、週後半特有の慌ただしさに満ちていた。
俺は人事部のデスクで、国内業務の再割り当てスケジュールを確認していた。デスクの上にはかつての見慣れた日常の書類が並び、ロンドンへのカウントダウンから解放されて数日が経とうとしている。
周囲の社員たちは、俺たちの赴任中止をただの「業務上のアクシデント」として処理し、何事もなかったかのように通り過ぎていく。
だが、俺の胸の中は、彼らが処理する「ただの業務変更」とはまったく違う、ドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
(……今日から、どうすればいいんだ)
これまでは「もうすぐいなくなる遠い人」という大義名分があったからこそ、オフィスでの冷徹な「他人のフリ」を耐え抜くことができた。
だが、その防壁が粉々に砕け散り、昨夜お互いの本音をすべて曝け出し合って抱きしめ合ってから迎えた、最初のビジネスタイム。
フロアの向こう側、広報部のブースに目を向けると、千歳がチーフと何やら真剣な面持ちで打ち合わせをしていた。一寸の隙もないネイビーのジャケット、知的にまとめられたハーフアップの髪。
完璧な「広報のエース、如月さん」の姿がそこにあった。
その時、千歳が書類を抱えて、こちらの人事部フロアへと歩いてきた。
いつも通り真っ直ぐな視線。カツカツと響くヒールの音。
(来る……)
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。
千歳は俺のデスクの前でピタリと足を止めると、クリアファイルを差し出してきた。
「――人事部の相馬さん。お疲れ様です。広報部側で保留にしていた、来月以降の国内向けプレスリリースの年間計画表です。赴任延期に伴い、相馬さんの確認ルートを再度追加しましたので、チェックをお願いいたします」
言葉遣いは完璧なビジネス敬語。トーンも凛としていて非の打ち所がない。
だが、ファイルを差し出す彼女の指先が、ほんの少しだけ震えているのを、俺の目は見逃さなかった。
さらに、まっすぐに俺を見つめる彼女の大きな瞳の奥には、いつもなら徹底されていたはずの「冷淡な一瞥」ではなく、昨夜の涙の余韻を隠しきれない、切ないほどの動裕がゆらゆらと揺らめいていた。
「……あ、ああ。如月さん、ありがとうございます。復帰の件、了解しました。すぐに目を通しておきます」
俺の声も、どこか上擦ってしまった。
お互いに完璧な「他人のフリ」という仮面を被り直そうと必死になっているが、その仮面はもう、内側からの熱量で今にも溶け出してしまいそうなほど脆くなっている。
「よろしく、お願いいたします」
千歳はそれだけ言うと、コクリと頭を下げて、翻るように去っていった。
すれ違いざまに鼻腔をくすぐった、あの少し甘い香水の匂い。昨夜、腕の中でずっと嗅いでいたあの温かな温もりの記憶が、オフィスの無機質な空気の中で鮮烈に蘇り、俺の頭を激しく混乱させる。
他人のフリをするための防壁を完全に失った俺たちは、この戦場のようなオフィスで、むき出しの感情を隠しながらどうやって距離を保てばいいのか。
タイムリミットが消え去ったことで訪れた、新しい日常の混線。そのじれったい緊張感は、平穏を取り戻したはずのフロアの中で、より一層激しく俺たちの理性を揺さぶり始めていた。




