第3章 第19話:木曜日の朝光、ほどけていく結び目
木曜日の午前7時。
遮光カーテンの隙間から差し込む朝の光は、いつもよりずっと穏やかに、そして優しく部屋の床を照らしていた。
俺はベッドの脇に腰掛け、まだ浅い眠りの中にいる千歳の姿を静かに見つめていた。
昨夜、夜間会見の後にエプロンも持たずに俺の部屋へと駆け込んできた彼女は、俺の腕の中でこれまでの張り詰めていた緊張をすべて溶かすように、泥のように眠りについていた。
ハーフアップをほどいた艶やかな黒髪が枕の上に広がり、その無防備な寝顔には、かつて「自炊訓練」と称して毎晩パニック気味に包丁を握っていた頃の焦燥は、もうどこにも見当たらなかった。
俺のシャツの袖を小さく掴んだままの、彼女の細い指先。
腕の中に残るかすかな甘い香水の残香と、温かな体温の余韻が、俺たちの間にあった「男友達」というガラス細工の境界線が完全に消え去ったことを、静かに物語っていた。
ロンドン赴任の白紙撤回。
それは俺たちの歪なモラトリアムを強制終了させるアクシデントだったはずなのに、結果として俺たちから都合のいい大義名分をすべて剥ぎ取り、剥き出しの本音へと引きずり出した。
(……もう、あの頃の距離には戻れないな)
数時間後には、また木曜日のオフィスが始まる。
通路ですれ違うとき、俺たちはまた「人事部の相馬さん」と「広報部の如月さん」という完璧な仮面を被り直すのだろう。周囲の社員たちは、俺たちの間に流れる空気の決定的な変容など知る由もない。
だが、大義名分を失い、ただ「お互いを離したくない」という事実だけで結ばれた俺たちの他人のフリは、きっと以前よりもずっと不器用で、熱を帯びたものになるはずだった。
「……ん……。蓮……?」
不意に、千歳が睫毛を揺らしながらゆっくりと瞳を開けた。
朝の光の中で、少し潤んだ大きな瞳が、至近距離でまっすぐに俺を捉える。
彼女は自分の手が俺のシャツを掴んでいることに気づくと、一瞬だけカッと頬を林檎のように赤く染め、今さら隠れるように布団を鼻先まで引っ張り上げた。
「お、おはよう。千歳」
「……おはよう。……あんた、人の寝顔ジロジロ見ないでよ。幼馴染のプライドが傷つくでしょ」
布団の向こうから聞こえる声は、いつものツンとした強がりだったが、その瞳はひどく素直に、愛おしそうに俺を見つめ返していた。
境界線を壊した俺たちの前には、まだ名前のついていない新しい日常の地図が広がっている。
明日からのオフィスでの距離、これからの二人の形。そのすべてを新しく紡ぎ直していくためのじれったいモラトリアムの第2幕が、心地よい微熱を伴って、静かに幕を開けようとしていた。




