第3章 第18話:水曜日の深夜、エプロンのない抱擁
「ご飯、作れなくてごめん。……でも、作らなくていいのに、やっぱり私、どうしても蓮の顔が見たくて……」
息を弾ませ、ハーフアップの髪を少し乱したまま佇む千歳。
その言葉には、かつて俺を遠くへ送り出そうとしていた頃の「自炊訓練」という大義名分は、もう一辺も残っていなかった。ただの剥き出しの、言い訳のない本音だけが、薄暗いリビングの空気に優しく溶けていく。
俺は言葉を返す代わりに、一歩、彼女との距離を詰めた。
そして、その華奢な肩を、迷うことなく両腕のなかに強く引き寄せた。
「蓮……っ」
不意に視界を奪われた千歳が、俺の胸の中で小さく息を呑む。
だが、拒絶するような動きは一切なかった。それどころか、彼女はいつもの小さな通勤用バッグを床に落とすと、俺の背中に細い腕を回し、しがみつくように強く、強く掴み返してきた。
抱きしめた腕の中から、彼女の激しい鼓動と、会見の緊張感を残したままの熱い体温がダイレクトに俺の五感を支配する。
ジャケットの生地越しでも分かる、千歳の確かな存在感。昼間のオフィスで、完璧な「他人のフリ」を演じながらすれ違う瞬間、一瞬だけ鼻腔をかすめていたあの甘い香水の匂いが、今はこれ以上ないほど濃厚に、俺の胸の中で暴れていた。
「大義名分なんて、もう最初から必要なかったんだ」
俺は彼女の耳元で、自分でも驚くほど低く、そして熱を帯びた声で告げた。
「料理を作るとか作らないとか、ロンドンに行くとか行かないとか、そんなことはどうでもいい。お前がここにいたいと思って、俺がここにお前を置いておきたい。それだけで、俺たちが一緒にいる理由は十分だろ」
千歳は俺の胸に顔を埋めたまま、言葉にならない小さな声を漏らした。
彼女の手が、俺のシャツの布地をぎゅっと握りしめる。
これまで二人の間に頑固に敷かれていた「男友達」というガラス細工の境界線は、今、完全に粉々に砕け散り、二度と元に戻ることはない。
他人のフリをするビジネス敬語も、エプロンという名の免罪符も、もうこの部屋には必要なかった。
だが、長すぎたモラトリアムを完全に脱ぎ捨て、剥き出しの感情で重なり合った俺たちの前には、まだ正式な名前のついていない「この先」の関係性が、じれったい熱を持ったまま静かに横たわっている。
腕の中にある千歳の愛おしい体温が、俺の心臓とシンクロするように、ドギマギとした精神的狂瀾をさらに激しく打ち鳴らし続けていた。




