第3章 第17話:水曜日の残像、エプロンのない夜に響く足音
水曜日の21時半。
いつもなら部屋の中に満ちているはずの、香ばしい醤油の匂いも、食欲をそそるスパイスの香りも、今夜の部屋には一切存在しなかった。
コンロの火は消えたままで、換気扇の回る音の代わりに、ただ夜の静寂だけがリビングの隅々にまで行き渡っている。
今日は、千歳が「広報部の緊急の夜間記者会見対応」に追われ、ここに来られないと夕方に連絡があった。
ロンドンへのタイムリミットが消え去り、かつてのように「毎晩死に物狂いで料理を叩き込む」という狂気的な大義名分を失ったからこそ、こうして仕事の都合で「来ない夜」が訪れるのは、ごく自然なことだった。
なのに、俺はダイニングチェアに腰掛けたまま、所在なく空白のキッチンを見つめていた。
(……静かすぎるな)
赴任が白紙になり、お互いの本音を曝け出し合ってから数日。
俺たちは「男友達」と「幼馴染」という安全なガラス細工の防壁を完全に粉砕した。エプロンという名の免罪符を脱ぎ捨てた千歳は、ただ俺の隣にいたいという素直な意志で、ここ数日を一緒に過ごしてくれた。
だが、こうして一人きりになると、昼間のオフィスで崩壊しかけていた「他人のフリ」の残像が、妙にリアルな焦燥感となって胸の奥をチクチクと刺してくる。
通路ですれ違う瞬間、ネイビーのジャケットを纏った彼女が、一瞬だけ見せる熱を帯びた瞳。ビジネス敬語の隙間から漏れ出す、隠しきれない動揺。
想いが通じ合ったからこそ、以前とは比べ物にならないほどのドギマギとした精神的狂瀾が、俺の理性を激しく揺さぶり続けている。
その時だった。
ガチャリ、と静かに玄関の鍵が回る音がした。
時計を見れば、22時を回ったところだ。
驚いて立ち上がり、廊下へ向かおうとした瞬間、リビングのドアがゆっくりと開いた。
そこには、肩を小さく上下させながら、少し息を切らせた千歳が立っていた。
一寸の隙もないはずのネイビーのジャケットは心なしか少し着崩れており、知的なハーフアップの髪から幾筋かの後れ毛が、彼女の白い頬に張り付いている。
手には大きなポリ袋はなく、ただいつもの小さな通勤用バッグを固く握りしめていた。
「千歳……? 会見対応、遅くなるんじゃなかったのか?」
「……終わったの。終わって、すぐにタクシーに飛び乗ったんだから」
千歳は靴を脱ぎ、リビングに入ると、カウンターの上にポツンと置かれていた自分の淡いピンク色のエプロンをじっと見つめた。
今夜は料理を作る時間なんてない。そんなことは、彼女自身が一番よく分かっているはずだった。
「ご飯、作れなくてごめん。……でも、作らなくていいのに、やっぱり私、どうしても蓮の顔が見たくて……」
千歳はゆっくりと顔を上げ、潤んだ大きな瞳でまっすぐに俺を見つめた。
大義名分(自炊訓練)という名の防壁を完全に失い、ただの「会いたかった」という剥き出しの本音だけを抱えて、彼女は夜の闇を駆け抜けてきたのだ。
その健気で不器用な姿を見た瞬間、俺の胸の奥の精神的狂瀾は、甘く切ない熱量となって一気に臨界点へと達した。




