第3章 第16話:火曜日の静流、かすれゆく境界線の足跡
火曜日の15時。オフィスに差し込む午後の光は、昨日までの焦燥を嘘のように和らげ、穏やかなコントラストをデスクの上に描いていた。
俺は人事部の自席で、国内勤務に切り替わった社員の確定配置表をファイリングしていた。
かつては数日後に迫っていたはずの出発予定日。だが今、手元にあるのは期限を失った日常のルーティンワークだけだ。
「――如月さん、先ほど提出していただいた社内報のレイアウト、こちらで最終フィードバックを反映しました」
「ありがとうございます、相馬さん。すぐに広報部内の共有フォルダーに格納しておきます」
デスクの間を通り抜ける風のように、千歳は一寸の隙もないビジネススマイルを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
その凛とした瞳には、昨夜俺の部屋のキッチンで、生姜焼きのタレを跳ね散らかして「あっちゃっ!」と慌てていた面影など微塵もない。
徹底された他人のフリ。完璧なビジネス敬語。
だが、その鉄の仮面の裏側で、俺たちの境界線がもう二度と元には戻らないほど融解していることを、俺たちだけが知っていた。
すれ違いざま、千歳のジャケットの裾が、俺のデスクの端にかすかに触れた。
ほんの一瞬、彼女の愛用している少し甘い香水の匂いが、オフィスの無機質な空気の中に確かな存在感を残していく。
千歳はそのまま真っ直ぐに廊下を歩き去り、一度も振り返ることはなかった。
その徹底された背中を見送りながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
その数時間後。夜の21時半を回った俺の部屋。
昼間の冷徹なビジネスライクが嘘のように、キッチンからはトントン、と小気味よい包丁の音が響いていた。
「いい、蓮? 今夜は和食の基本、肉じゃがよ! 別にロンドンで誰かに見せるわけじゃないけど、煮崩れないジャガイモの面取りくらいは、大人の嗜みとして完璧にマスターしなさいよね!」
千歳は淡いピンク色のエプロンを身にまとい、鍋の中身を心配そうに覗き込んでいた。
会社のジャケットを脱ぎ、ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、昼間の「広報のエース、如月さん」とは完全に別人だった。
「分かってるよ。面取りなら、お前がパニックになってたあの日々に散々仕込まれたからな」
「な、何よそれ! 私は別にパニックになんてなってなかったわよ!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張った。
その言葉はいつものように強気だったが、鍋を見つめる彼女の横顔は、ほんのりとした桜色に染まっている。
ロンドン赴任という大義名分を失っても、彼女はエプロンを着て、こうして俺の部屋にやってくる。
「男友達」というガラス細工の防壁を自ら粉砕してしまったからこそ、今度は隣に並ぶだけで、指先が触れそうになるだけで、お互いにどうしようもなく照れくさくなってしまうのだ。
「はい、じゃあお皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
言えない本心を隠すための盾を失い、お互いに新しい距離感を測りかねて立ち往生している。
運命のタイムリミットが消え去った世界で、二人のじれったいモラトリアムは、甘辛い出汁の香りと一緒に、どこまでも深く、熱く煮詰まり続けていた。




