第3章 第14話:月曜日の臨界、仮面の隙間から覗く熱
月曜日の朝。ロンドン赴任の予定が完全に白紙に戻り、いつも通りの国内業務のサイクルが本格的に始まったオフィスは、奇妙な静けさをもって俺の感覚を刺激していた。
俺は人事部のデスクで、来期向けの組織改編資料の作成に没頭していた。
パソコンの画面に並ぶのは、見慣れた国内社員のデータ。デスクの足元を占領していたあの段ボール箱は影も形もなく、ただ広々とした空間が広がっている。
あんなに俺たちを追い詰め、残酷に秒読みを続けていた砂時計は、もうどこにもない。
それなのに、俺の胸の奥を激しく乱すドギマギとした精神的狂瀾は、あのカウントダウンの日々よりも確実にその熱量を増していた。
「――如月さん、先ほど役員会から降りてきた今期の広報予算の確定枠ですが、人事部側の配置プランとすり合わせを……」
「はい、承知いたしました。すぐに相馬さんのデスクへ資料をお持ちします」
広報部のブースから、千歳の凛とした声が響いてきた。
一寸の隙もないネイビーのジャケット、知的にまとめられたハーフアップ。彼女は周囲の社員から絶大な信頼を寄せられる「広報のエース」の仮面を完璧に着こなしている。
数分後、カツカツと小気味よいヒールの音がこちらへ近づき、俺のデスクの前でピタリと止まった。
「人事部の相馬さん、お疲れ様です。こちらが広報部側の修正データとなります。ご確認をお願いいたします」
千歳は一礼し、クリアファイルを差し出してきた。
言葉遣いは完璧なビジネス敬語。表情も凛としていて、周囲の目にはただの「業務連絡を行う二人の社員」にしか映らないだろう。
だが、差し出されたファイルを受け取ろうとしたその瞬間、俺の指先が、彼女の細い指先に微かに触れた。
――ビクッ、と千歳の身体が小さく跳ね上がった。
千歳は表情こそ崩さなかったが、まっすぐに俺を見つめるその大きな瞳の奥が、激しく、そして切なげにゆらゆらと揺らめいた。
昨夜、俺の部屋のキッチンで「夏直前のシチューだって格別なんだから!」と上気した顔で笑っていた少女の体温が、その張り詰めた瞳の奥から一瞬だけ溢れ出しそうになる。
他人のフリをするための「もうすぐいなくなる遠い人」という大義名分を失った今、この完璧なビジネス敬語の応酬すら、お互いの本音を覆い隠すための酷く脆いガラス細工の防壁のようだった。
「……ありがとう、如月さん。すぐに目を通して、夕方までにフィードバックするよ」
「はい。よろしく、お願いいたします」
千歳はそれだけ言うと、深く一度だけ瞬きをし、翻るように去っていった。
すれ違いざま、オフィスの無機質な空気の中に、彼女の少し甘い香水の匂いが鮮烈に溶けていく。昨夜、至近距離で嗅ぎ、腕の中で確かめたあの温かな温もりの記憶が、脳裏に強烈にフラッシュバックして俺の理性を激しくかき乱した。
周囲の誰もが俺たちの赴任中止を「ただの業務変更」として片付け、通り過ぎていく戦場のようなオフィス。
しかし、大義名分をすべて失い、お互いを特別に想い合っているという事実を知ってしまった俺たちにとって、この「徹底された他人のフリ」は、内側から溶け出す熱量でもう限界を迎えつつあった。




