第3章 第13話:日曜日の残熱、終わらない日常のシチュー
日曜日の21時。
窓の外の夜は、明日から始まる新しい一週間を前に、しっとりとした静寂を湛えていた。
かつてなら、俺がこの国で過ごす最後の月曜日を目前に控え、パニックの頂点に達していたはずの時間だ。しかし今、俺の部屋のキッチンには、あの日々とは全く違う、だけどどこか懐かしいホワイトソースの甘い香りが優しく満ちていた。
「――はい、今夜はクリームシチューよ! 別に海外で自炊を生き抜くためのメニューじゃないんだから、じゃがいもが多少煮崩れたって、文句は言わないこと!」
淡いピンク色のエプロンの紐を背中で器用に結びながら、千歳がコンロの前に立っていた。
ロンドン赴任が白紙になり、「海外赴任に備えた自炊訓練」という不器用な大義名分はもうここにはない。それでも彼女は、今夜当たり前のように食材を買い込み、あの頃と同じエプロンを身にまとって俺の部屋のキッチンを支配していた。
「シチューか。これからの季節にはちょっと温まりすぎるけど、美味そうだな」
「何言ってるのよ、夏直前のシチューだって格別なんだから。ほら蓮、鶏肉にちゃんと火が通ってるか、あんたのそのバカな目で確認して!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草で胸を張ってみせる。
口調も態度も、あのじれったいモラトリアムの日々のままだ。
だが、鍋を丁寧に木べらでかき混ぜる千歳の横顔を見つめながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
かつては俺を遠くへ送り出すための切ない「免罪符」だったそのエプロンが、今は、何の大義名分がなくても俺の隣にいたいという、彼女の剥き出しの素直な本音そのものとして機能している。
明日になれば、また月曜日が始まる。
オフィスに入れば、俺たちは再び「人事部の相馬さん」と「広報部の如月さん」という完璧な戦闘服を身にまとうだろう。周囲の社員たちは、俺たちの赴任中止をただの「業務変更」として片付け、通り過ぎていく。
だが、大義名分をすべて失い、お互いを特別に想い合っているという事実を知ってしまった俺たちは、もう以前と同じ「他人のフリ」を演じきることはできない。
「……じゃあ、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「ああ、分かった。今運ぶよ」
千歳は、コンロの熱のせいだけではない、微かに上気した顔を隠すようにわざと声を弾ませてシチューをテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいく。
安全な仮面を失い、お互いに新しい距離感を測りかねて立ち往生しながらも、俺たちの新しい日常の歯車は、心地よい熱を帯びたまま、どこまでもじれったく回り続けていた。




