第3章 第12話:土曜日の黄昏、空白のキッチンに灯る光
土曜日の17時。
デリで買ってきたボックスの片付けを終えた部屋には、いつかの週末のような、ロールキャベツをコトコトと煮込むコンロの音は響いていなかった。
窓の外を見れば、初夏の力強い太陽が西の空へと大きく傾き、部屋全体を燃えるような濃い茜色に染め上げている。壁に伸びる二人の影は、これまでで最も長く、そして逃げ場のないほど近くに並んでいた。
千歳はソファの上で、お気に入りのクッションを胸に抱え込んだまま、静かに夕焼けを見つめていた。
上品なローゲージニットの袖口から覗く細い指先が、クッションの端を所在なさげに弄んでいる。オフィスの「如月さん」の完璧な戦闘服を脱ぎ捨て、淡いピンク色のエプロンという名の防壁すら持たない今の彼女は、どこまでも無防備で、そして少しだけ心細そうに見えた。
俺はダイニングチェアから立ち上がり、ソファの彼女の隣へと歩み寄って腰を下ろした。
カサリ、とクッションが擦れる音が、静かな部屋にやけに大きく響く。
(この部屋に、もうロンドンの生活マニュアルも、キャンセルされた航空券の控えもない……)
かつて俺たちを追い詰め、大パニックに陥れていたタイムリミットの重みは消え去った。
だが、その代わりに部屋を満たす夕闇は、お互いの存在の大きさを、より鮮明に浮き彫りにさせていくようだった。
「……静かだね、蓮」
千歳がクッションに顎を乗せたまま、ぽつりと呟いた。その大きな瞳が、茜色の光を反射してきらきらと輝いている。
「そうだな。料理の匂いもしないし、コンロの音もないからな」
「うん。……でも、嫌じゃないかも。何もしなくていいのに、こうして蓮の隣にいるの」
千歳はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳でまっすぐに俺を見つめた。
素直に「寂しい」と言えたあの日を経て、俺たちは「男友達」というガラス細工の防壁を完全に粉砕したはずだった。
昼間のオフィスで見せる完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」と、夜の部屋で大義名分を完全に失いながらも、なお隣に座り続ける彼女。
その圧倒的なギャップに、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
「千歳。これからは、何の大義名分がなくても、ここにいていいんだからな」
俺が少しだけ声を低くして言うと、千歳は息を呑み、言葉を失ったようにパチパチと瞬きをした。
そして、じわじわと赤くなっていく顔を隠すように、またクッションに深く顔を埋めてしまった。
「……知ってるわよ。あんたがそうやって、すぐにずるいこと言うのも、全部知ってるんだから……」
クッションの向こうから、消え入りそうな、だけど確かに熱を帯びた声が響く。
言えない本心を隠すためのエプロンを脱ぎ捨て、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を必死に被り直そうとしても、その境界線はもうどこにも残っていない。
運命の針が戻り、新しく始まった日常の中で、俺たちのじれったいモラトリアムは、夕闇のグラデーションに溶け込むように、より深く、より甘く、内側から熱を帯び続けていた。




