第3章 第11話:土曜日の微熱、エプロンのない特等席
土曜日の午前11時。
窓の外から差し込む初夏の光は遮光カーテンに遮られ、部屋の中を柔らかな琥珀色に染めていた。
いつもなら買い出しの大きなポリ袋を両手に提げて入ってくる千歳が、今日は小さなスクエア型のトートバッグだけを肩に掛け、少しはにかむような笑みを浮かべて玄関に立っていた。
「よ。……今日はね、自炊はお休み。ほら、これ」
千歳がバッグから取り出したのは、駅前の有名なデリで買ってきたという、彩り鮮やかなサンドイッチとキッシュのボックスだった。
上品なローゲージニットに、風に揺れるプリーツスカート。オフィスのネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、お団子頭にまとめた彼女の姿は、いつかの土曜日と同じはずなのに、俺の目に映る彼女の輪郭はどこか違って見えた。
何より、今日の彼女の腰には、あの淡いピンク色のエプロンが巻かれていない。
「そっか。たまには作らない週末もいいな。いつも悪いと思ってたし」
「な、何言ってるのよ! 私がちょっと楽をしたかっただけなんだからね。勘違いしないでよね」
千歳はふんす、と鼻を鳴らしていつものようにツンと胸を張ってみせる。
口調も、態度も、生意気な「男友達」を演じていたあの頃のままだ。
だが、リビングのローテーブルに並んで座り、キッシュを口に運ぶ千歳の横顔を見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
エプロンという名の大義名分を完全に失った今、彼女がこうして週末に俺の部屋にいる理由は、ただ「俺と一緒にいたいから」という剥き出しの事実以外に存在しない。
防壁を失った二人の距離は、驚くほど近かった。
床に座る彼女の膝と、俺の膝が、ほんの少し動くだけで触れ合ってしまう。
(……あいつ、さっきから全然俺の目を見ようとしないな)
千歳は手元のサンドイッチを小さな口で熱心にモグモグと動かしているが、その耳たぶが、髪の隙間から覗く首筋までが、綺麗な桜色に染まっているのを俺の目は見逃さなかった。
お互いの想いを曝け出し、あの夜に抱きしめ合った記憶が、部屋の無機質な静寂の中で鮮烈に蘇る。
想いが通じ合ったからこそ、これまでの「幼馴染の男友達」という安全な仮面が使えなくなり、どうやって隣に座ればいいのか分からなくなっているのだ。
「……蓮、何よさっきからジロジロ見て。私の顔に、何か付いてる?」
千歳がようやくこちらを向いた。潤んだ大きな瞳が、至近距離でまっすぐに俺を捉える。
「いや……。エプロン姿じゃないお前が目の前にいるのが、なんか新鮮でさ」
「なっ……! 毎日オフィスで私服もジャケット姿も見てるでしょ!」
「オフィスじゃ『如月さん』だろ。今のほうが、ずっといい」
俺が少しだけ声を低くして言うと、千歳は一瞬だけ息を呑み、言葉を失ったようにパチパチと瞬きをした。
そして、堪えきれなくなったようにクッションに顔をぎゅっと埋めて、小さく丸まってしまった。
「……ずるい。あんた、ロンドン行きがなくなってから、変なことばっかり言う……」
クッションの向こうから、消え入りそうな声が響く。
言えない本心を隠すための盾を失い、お互いに新しい距離感を測りかねて立ち往生している。
運命のタイムリミットが消え去った世界で、俺たちの新しく、そして途方もなくじれったいモラトリアムは、心地よい微熱を帯びながら、静かに部屋の空気を溶かし続けていた。




