第3章 第10話:金曜日の夕闇、溶け出す境界線の果てに
金曜日の18時。一週間の激務を終えたオフィスは、週末の解放感に包まれながら急速に静まり返りつつあった。
俺は人事部のデスクで、来週からの社内研修プログラムの資料をバインダーに収め、ようやく一息ついていた。
ロンドンへのカウントダウンから解放されて数日。足元にあった段ボール箱は完全に姿を消し、デスクの上にはかつての国内業務のルーティンが完全に定着している。
(……一週間が、終わるな)
椅子の背もたれに深く体を預けながら、俺はふと、フロアの反対側にある広報部のブースに視線をやった。
「――はい、今週分のメディアモニタリングレポートの提出、完了いたしました。お疲れ様でした!」
千歳のハキハキとした声が、静かになりかけたフロアに心地よく響く。
ネイビーのジャケットを端正に着こなし、知的なハーフアップに整えられた彼女の姿は、周囲の誰もが憧れる完璧な「広報のエース、如月さん」そのものだ。
だが、デスクの片付けを始めた千歳が、ふと顔を上げてこちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
遮るもののないオフィスの空間を挟んで、二人の視線がまっすぐに交錯する。
かつてのような冷徹な「他人のフリ」は、もうそこにはなかった。
千歳は表情を一ミリも崩さないままだったが、俺を見つめる大きな瞳の奥には、どこか熱を帯びた、そして昨夜キッチンで隣り合って鍋を見つめていたときのような、甘くじれったい光が確かに宿っていた。
彼女は小さく一度だけ、俺にしか分からないように深く瞬きをすると、手元のバッグを肩に掛けてフロアを後にした。
その徹底された「仮面」の裏にある熱量に胸を熱くしながら、俺もまた、デスクの上のパソコンをシャットダウンした。
21時半。俺の部屋。
昼間のオフィスの緊張感が嘘のように、キッチンからはジュー、という小気味よい音が響いていた。
「いい、蓮? 今夜はハンバーグよ! 別にロンドンに行くわけじゃないんだから、形が多少不格好でも文句は言わないけど、肉汁を閉じ込める焼き方だけは今夜で完全にマスターしなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンの中のハンバーグをひっくり返しながら言った。
会社のジャケットを脱ぎ捨て、白ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前にオフィスで見せた「如月さん」とは完全に別人だった。
「分かったよ。両面に焼き色をつけたら、弱火にして蓋をして蒸し焼き、だろ?」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次はソースを作るわよ!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンにケチャップとウスターソースを注ぎ込む千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥は、これまでとは違う意味でドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
大義名分(自炊訓練)を失いながらも、なおエプロンを着て俺の部屋を支配しようとする彼女。
素直に「寂しい」と言えたあの日を経て、俺たちは「男友達」というガラス細工の防壁を完全に粉砕したはずだった。
なのに、こうして二人きりになると、お互いに気恥ずかしさが勝ってしまい、どうしても昔ながらの「幼馴染」の距離感に逃げ込んでしまう。
通じ合ったはずの本心をハンバーグの湯気の向こう側に隠し、じれったいモラトリアムの余韻を繋ぎ止めようと必死になっている。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立てのハンバーグをテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいった。
運命の針が戻り、新しく始まった日常の中で、俺たちのじれったい境界線は、より深く、より甘く、内側から溶け出し続けていた。




