第3章 第9話:木曜日の夜、キッチンに並ぶ二人
木曜日の21時半。
部屋のドアを開けると、そこには千歳が立っていた。
手には、久しぶりにあの近くの高級スーパーの大きなポリ袋が提げられている。中からは、みずみずしい白菜の葉と、薄切りの豚肉のパックが覗いていた。
だが、彼女の様子はこれまでとは決定的に違っていた。
いつもならドアを開けた瞬間に「ほら蓮、食材!」と強気に言い放ち、我が物顔でキッチンへと直行していたはずの千歳が、今日はどこか頬を赤らめ、視線を泳がせながら玄関に佇んでいる。
「……いらっしゃい。上がれよ」
「うん……。お邪魔します」
リビングに入ると、千歳はバッグから、あの淡いピンク色のエプロンを取り出した。
これまで彼女の心を縛り付け、俺の部屋を支配するための免罪符だった、不器用な防壁。それを、彼女はしばらく愛おしそうに見つめた後、ゆっくりと腰に巻き、背中でリボンを結んだ。
ロンドンへの赴任は白紙になり、「自炊訓練」という最大の大義名分はもう存在しない。
それでも、彼女はエプロンを着た。それはもう自分を騙すための盾ではなく、ただ俺のために料理を作りたいという、純粋な意志の現れのように思えてならなかった。
「……今日はね、ミルフィーユ鍋にしようと思って。これなら白菜と豚肉を交互に重ねて切るだけだから、あんたでも、その……一人でも簡単に作れるし」
千歳はキッチンに立ち、大根を刻むときのような威勢の良さはなく、どこか照れくさそうに白菜の葉を重ね始めた。
「男友達の健康管理」という建前を失った彼女の言葉は、いつもよりずっと優しく、そして素直に俺の胸に染み込んでいく。
「手伝うよ。白菜を鍋の深さに合わせて切ればいいんだろ?」
俺が隣に並び、包丁を手に取ると、千歳はビクッと肩を揺らした。
「あ、うん。……そう、4センチ幅くらいに切って」
狭いキッチンの中で、二人の肩がかすかに触れ合う。
昨日までなら、その距離感にドギマギとした精神的狂瀾を覚え、お互いに「男友達」「幼馴染」というガラス細工の境界線を必死に守ろうと身を固くしていただろう。
だが、すべてを曝け出し、腕の中で体温を分け合った今の俺たちにとって、その触れ合いは、切ないほどの愛おしさと、新しい戸惑いを伴って胸の奥を激しく打ち鳴らしていた。
昼間のオフィスで見せる、完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」。
そして夜の部屋で、大義名分を失いながらも、なお隣に並んで鍋を見つめるエプロン姿の彼女。
その圧倒的な距離の近さに、俺の理性は心地よく麻痺していくようだった。
「ほら、綺麗に並べられたわよ。あとは出汁を入れて火にかけるだけ」
千歳はふう、と小さく息を吐き、少し潤んだ瞳で俺を見上げた。
鍋から立ち上る静かな湯気の向こう側で、二人の視線が熱を持ったまま絡み合う。
大義名分をすべて失った俺たちの自炊訓練は、その目的を完全に変えながらも、終わりのない新しい日常の始まりに向かって、じれったく、だけど確実に熱を帯び続けていた。




