第3章 第6話:水曜日の夜、仮面のない体温
「……寂しいって言ったら、あんたの邪魔になっちゃうから……だから、エプロンを着て、幼馴染のふりをして、そうやって自分を騙してないと、あんたの傍にいられなかったんだから……!」
千歳の叫びのような本音が、料理の香りを失った部屋の隅々にまで染み渡っていく。
泣きじゃくる彼女の肩は小さく激しく震えており、その姿はオフィスの「如月さん」でも、強気な「幼馴染」でもない、ただ俺の前に曝け出された一人の愛おしい少女だった。
俺は握りしめていた彼女の手を引いた。
そのまま吸い寄せられるように、千歳の小さな体を力強く腕の中に抱きしめていた。
「蓮……っ」
不意に視界を奪われた千歳が、俺の胸の中で息を呑む。
だが、拒絶するような動きは一切なかった。それどころか、彼女は俺の背中に細い腕を回し、まるで二度と離さないと言わんばかりに、俺のシャツの布地を強く、強く掴み返してきた。
抱きしめた腕の中から、千歳の確かな体温と、あの少し甘い香水の匂いがダイレクトに俺の五感を支配する。
昼間のオフィスの通路ですれ違う瞬間、一瞬だけ鼻腔をかすめていたあの匂いだ。あのとき、どれほど遠く感じていた彼女の存在が、今はこれ以上ないほど近く、俺の胸の中に収まっている。
「もう、幼馴染のふりなんてしなくていい。男友達なんていう、都合のいい防壁の後ろに隠れるのも終わりだ」
俺は彼女の耳元で、自分でも驚くほど低く、そして揺るぎない声で告げた。
「ロンドンに行くからお前を求めてたんじゃない。お前が目の前からいなくなるって思ったから、自分がどれだけお前を必要としてるか、やっと気づけたんだ。赴任がなくなっても、俺がお前を離したくない気持ちは、一ミリも変わらない」
千歳は俺の胸に顔を埋めたまま、言葉にならない嗚咽を漏らした。
彼女の涙が、俺のシャツの胸元を温かく濡らしていく。
これまで二人の間に頑固に敷かれていた「男友達」というガラス細工の境界線は、今、完全に粉々に砕け散り、二度と元に戻ることはない。
他人のフリをするビジネス敬語も、エプロンという名の免罪符も、もう必要なかった。
だが、長すぎたモラトリアムを脱ぎ捨て、剥き出しの感情で重なり合った俺たちの前には、まだ言葉にされていない「この先」の関係性が、熱を持った沈黙を引き連れて静かに横たわっている。
腕の中にある千歳の鼓動が、俺の心臓とシンクロするように、ドギマギとした精神的狂瀾をさらに激しく打ち鳴らし続けていた。




