第3章 第7話:木曜日の夜明け、未完成の新しい地図
水曜日の深い夜が明けていく。
遮光カーテンの隙間から、薄青い木曜日の朝の光が静かに部屋へと忍び込んできた。
ソファの上で、千歳は俺の腕の中に頭を埋めたまま、小さく規則正しい寝息を立てていた。
泣き疲れて眠ってしまった彼女の睫毛はまだ微かに濡れており、その目元には、これまでの自炊訓練で張り詰めさせていた焦燥の影が、嘘のように消え去っている。
俺のシャツの胸元を固く握りしめていた彼女の細い指先は、今も緩むことなくそこにある。
腕の中に残る彼女の体温と、かすかに漂う甘い香水の匂い。それが、昨夜二人が交わした剥き出しの本音が夢幻ではなかったことを、何よりも雄弁に証明していた。
「男友達」と「幼馴染」というガラス細工の防壁は、完全に粉砕された。
もう、あの淡いピンク色のエプロンを免罪符にする必要はないし、明日からのオフィスで、張り詰めた面持ちで「他人のフリ」をする必要もない。
だが、境界線を失った俺たちの前には、まだ名前のついていない「新しい関係」の白紙の地図が広がっている。
(赴任が白紙になった今、俺たちはこれから、どうやって歩いていけばいいんだろう……)
数時間後には、また木曜日のオフィスが始まる。
ロンドンへ行くはずだった人事部の相馬と、それを見送るはずだった広報部の如月。
周囲の社員たちは、俺たちの赴任中止をただの「業務上のアクシデント」として処理するだろう。だが、大義名分をすべて失った俺たちが、明日からどんな顔をして社内で言葉を交わし、どんなふうにプライベートの時間を重ねていくのか。
腕の中の千歳が、眩しそうに眉をひそめ、ゆっくりと瞳を開けた。
薄青い朝の光の中で、俺たちの視線が至近距離でまっすぐに交錯する。
「……蓮……」
寝起きの、少し掠れた声。そこにはもう、オフィスの冷徹な仮面も、強がりのツンとした仕草もない。
「おはよう、千歳」
「……うん。おはよう」
千歳は頬を赤らめ、気恥ずかしそうに俺の胸に再び顔を埋めた。
想いは通じ合い、かつての歪なモラトリアムは終わりを迎えた。しかし、あまりにも劇的に壊してしまった境界線の先で、俺たちの新しい日常の歯車は、まだ噛み合うための最初のステップを模索するように、ドギマギとした熱を帯びたまま静かに震えていた。




