第3章 第5話:水曜日の夜、決壊する言葉
千歳の震える声が、料理の香りを失った無機質な部屋に、ひび割れたガラスのような音を立てて響いていた。
「……もう自炊の練習なんて必要ないのに、どうして私は今日も蓮の部屋の前にいるんだろうって」
潤んだ瞳から、ついに一筋の涙が溢れ、彼女の白い頬を伝って落ちていく。
その涙を見た瞬間、俺の胸の奥でせき止められていたドギマギとした精神的狂瀾が、一気に限界を迎えて決壊した。
「千歳……」
俺は椅子から立ち上がり、吸い寄せられるようにソファの前の彼女の元へと歩み寄った。
昼間のオフィスで完璧に演じていた「他人のフリ」も、夜の部屋で彼女を縛り付けていた「男友達の健康管理」という不器用な大義名分も、今の俺たちにはもう一辺の役にも立たない。そんな都合のいい防壁は、すべて赴任の白紙撤回とともに粉々に砕け散ったのだ。
「もう、言い訳できないな」
俺は千歳の目の前にしゃがみ込み、膝の上で固く握りしめられていた彼女の細い手を、包み込むように強く握りしめた。
千歳の手は、驚くほど冷たく、そして激しく震えていた。
「蓮……っ」
「俺も同じだよ。ロンドン行きがなくなったって聞いたとき、赴任しなくて済むっていう安心なんかより先に、頭に浮かんだのはお前のことだけだった。赴任がなくなったら、もう夜にお前がここに来る理由がなくなっちゃうじゃないかって、そればかり考えてパニックになってたんだ」
千歳は息を呑み、涙に濡れた瞳を大きく見開いて俺を見つめ返した。
「他人のフリなんて、本当は一秒だってしたくなかった。お前がエプロンを着て、毎晩必死に料理を作ってくれていたとき、俺がどれだけお前を抱きしめたい衝動と戦っていたか、お前は知らないだろ」
「……っ、そんなの、知らないわよ……! あんた、いつも飄々とした顔して食べてたじゃない……!」
千歳は堪えきれなくなったように激しく男泣きに暮れ、握られた俺の手をさらに強く握り返してきた。
「ずるいよ、蓮……。私、あんたが遠くに行っちゃうって思ったら、本当に頭がおかしくなりそうだったの。寂しいって言ったら、あんたの邪魔になっちゃうから……だから、エプロンを着て、幼馴染のふりをして、そうやって自分を騙してないと、あんたの傍にいられなかったんだから……!」
長すぎたモラトリアムの終わり。
「男友達」と「幼馴染」という安全なガラス細工の境界線は、今、二人の涙と剥き出しの本音によって、完全に粉砕された。
だが、その境界線が消え去った後に訪れたのは、これまでにないほど強く、そして深くお互いを求め合う、息が詰まるような熱い沈黙だった。




