第3章 第4話:水曜日の夜、むき出しの境界線
水曜日の21時半。
部屋のチャイムが、いつもよりどこか遠慮がちに、小さく鳴り響いた。
ドアを開けると、そこには千歳が立っていた。
いつものようにマイエプロンを抱えているわけでもなく、高級スーパーのポリ袋を提げているわけでもない。ただ、小さな通勤用のハンドバッグを両手で強く握りしめ、所在なさげに佇んでいる。
「……いらっしゃい。入りなよ」
「うん……。お邪魔します」
部屋に入ってきた千歳は、いつもなら真っ先に直行するはずのキッチンには目もくれず、リビングのソファの端に、まるで見知らぬ他人の家に招かれたかのように恐る恐る腰を下ろした。
会社のネイビーのジャケットを脱いだ彼女の白いブラウス姿が、遮光カーテンの閉まった薄暗い部屋の中で、妙に白く浮き上がって見える。
部屋の中には、かつて二人を満たしていた筑前煮やぶりの照り焼き、カレーのスパイスといった、家庭的な料理の香りは一切残っていなかった。ただ、無機質な静寂だけが、重く二人の間に横たわっている。
「何か飲むか? 麦茶でいい?」
「あ、うん。ありがとう……」
キッチンでグラスに氷を入れる音が、やけに大きく部屋に響く。
お互いに、どうやって会話を切り出せばいいのかが分からなかった。
ロンドン赴任という、終わりの決まったタイムリミット。
それがあったからこそ、俺たちは「幼馴染の男友達」と「広報部のエース」という安全な仮面を被り、自炊訓練という名の不器用なモラトリアムに甘えることができていたのだ。
だが、その防壁が唐突に取り払われた今、俺たちの前には「ただお互いを離したくないと願っていた」という、むき出しの本音だけが、言い訳の余地もなく転がっている。
俺はグラスをテーブルに置き、千歳から少し離れたダイニングチェアに腰掛けた。
「あのさ、蓮……」
千歳がグラスに手を伸ばさないまま、膝の上で拳を握りしめ、ぽつりと口を開いた。
「料理……もう、作らなくてよくなっちゃったね」
「……そうだな。ロンドン行き、なくなっちゃったからな」
「うん。……変だよね」
千歳は自嘲気味に小さく笑った。だが、その大きな瞳の奥には、今にも決壊しそうなほどの激しい精神的狂瀾が渦巻いているのを、俺の目は見逃さなかった。
「行くって聞いたときは、あんなに大パニックになって、何かしなきゃって思って……。英語も喋れないあんたが海外で野垂れ死にしたら困るからって、必死にメニュー考えて、毎晩ここに来て……」
千歳の声が、次第に細く震え始める。
「でも、行かないって分かったのに。……私、今夜もここに来る理由、ずっと考えてたの。もう自炊の練習なんて必要ないのに、どうして私は今日も蓮の部屋の前にいるんだろうって」
千歳はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳でまっすぐに俺を見つめた。
エプロンという名の大義名分を失った彼女の瞳は、もう「男友達」を演じるためのガラス細工の防壁を、完全にかなぐり捨てていた。
言葉にできない焦燥感と、お互いの距離を測りかねるじれったい沈黙が、熱を帯びたまま部屋の空気をじりじりと焦がしていく。




