第3章 第3話:水曜日の空白、仮面を失った二人の距離
水曜日の朝。
オフィスを包む空気はいつもと変わらないはずなのに、俺の目に映る光景は、その色彩を完全に失ってしまったかのようにモノトーンだった。
人事部のデスクに座る俺の横には、昨日まで赴任の準備として積み上げられていた段ボール箱が、主を失った抜け殻のように静かに佇んでいる。周囲の社員たちからは「大変だったな」「まあ、国内でまた一緒に働けるんだから良かったよ」と声をかけられるが、そのどれもが俺の耳を素通りしていった。
もう、ロンドンへのカウントダウンを告げる砂時計は存在しない。
だが、その事実は俺の胸を、安堵ではなく底知れない恐怖で満たしていた。
「――如月さん、先ほど役員会から降りてきた広報スケジュールですが……」
「はい、ただちに確認し、国内メディア向けの配信設定を修正いたします」
広報部のブースから聞こえる千歳の声が、オフィスの無機質な空気に冷たく響く。
一寸の隙もないネイビーのジャケット、知的にまとめられたハーフアップ。いつも通りの完璧な「広報のエース」の姿。
だが、俺には分かっていた。その声のトーンが、昨日まで俺を突き放していた「徹底された他人のフリ」の冷たさとは、決定的に違っていることに。
それは、演じるべき『仮面』そのものを完全に見失ってしまった人間の、痛々しいほどの虚勢だった。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
オフィスを行き交う社員たちの雑音の向こう側で、二人の視線がまっすぐに交錯する。
昨日までなら、彼女は表情を一ミリも崩さないまま、事務的な一瞥をくれるだけで済ませていたはずだった。
だが、今日の千歳は違った。
俺と目が合った瞬間、彼女の美しい瞳がかすかに泳ぎ、息を呑むように唇が戦慄いた。そして、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、弾かれたように手元のタブレットへと視線を落としたのだ。
他人のフリをするための大義名分を、俺たちはもう持っていない。
「もうすぐいなくなる遠い人」だからこそ維持できていたオフィスでの距離感は、赴任の白紙撤回によって、完全にその根拠を失ってしまった。
その日の昼休憩。
オフィスの屋上へと続く、人気の途絶えた階段の踊り場で、俺は手すりに寄りかかりながら、激しい精神的狂瀾に身を焦がしていた。
ポケットの中で、スマホが小さく震える。
『今夜、そっちに行ってもいい?』
千歳からの、短すぎるメッセージだった。
いつもなら「今日のメニューは〜よ!」と強気な大義名分が添えられているはずの画面には、ただそれだけの文字が冷たく浮かんでいる。
自炊訓練という名の防壁を失った俺たちが、今夜、あの部屋でどんな顔をして向き合えばいいのか、今の俺には全く見当がつかなかった。お互いを特別に想い合っているという剥き出しの事実だけが、じれったい沈黙を引き連れて、すぐ目の前まで迫っていた。




