表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
仮面広報の幼馴染は、俺の異動(タイムリミット)に気づかない――ふりをしている。  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/130

第3章 第2話:火曜日の夜、主を失ったキッチン


火曜日の21時半。

いつもと同じ時間、いつもと同じ部屋。しかし、部屋を包む空気は昨日までとは根底から異なっていた。

コンロの火は消え、換気扇の回る音だけが低く響いている。カウンターキッチンの上には、何も食材の載っていないまな板が、ひっそりと白い平らな面を晒していた。


ガチャリ、と静かにドアが開く音がした。

入ってきたのは千歳だった。

だが、その手にはいつも提げられていたスーパーのポリ袋も、食材を詰め込んだ紙袋もなかった。


彼女はいつも通り、ゆったりとした白のブラウスを着ていたが、その腰に、あの淡いピンク色のエプロンが巻かれることはなかった。


「……千歳」

「……うん」


千歳は靴を脱ぎ、リビングへ進むと、カウンターにぽつんと置かれたマイエプロンを見つめた。それを手に取ることもなく、ただじっと見つめている。その横顔は、昼間にオフィスの廊下で見せた完璧な「如月さん」の仮面でもなければ、夜の部屋で見せる生意気な幼馴染のそれとも違っていた。


「聞いたよ。お昼の、海外事業部の人たちの話」

千歳はぽつりと言った。その声は驚くほど小さく、いつもの張りのあるトーンはどこにもなかった。


「ああ。ビザの発給要件が変わったらしくてな。事実上の無期限延期……白紙撤回だ。今週末のフライトはキャンセルになった」

「そっか……。行かないんだ、ロンドン」


千歳はゆっくりと視線を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。その大きな瞳の奥には、赴任がなくなって安心したような色は微塵もなかった。あるのは、拠り所を完全に失った人間の、深い困惑と焦燥だけだった。


俺たちは気づいてしまったのだ。

ロンドン赴任という「巨大なタイムリミット」があったからこそ、俺たちは「他人のフリ」という寂しさに耐えられた。

「男友達の健康管理」という大義名分があったからこそ、千歳はエプロンを免罪符にして、毎晩この部屋に押しかけることができた。


だが、ロンドンに行かないのであれば、この「自炊訓練」は一体何のためのものなのか。

明日からのオフィスで、俺たちはどういう顔をしてすれ違えばいいのか。


大義名分という名の防壁を剥ぎ取られた俺たちの前には、ただ、「お互いを特別に想い合っている」という剥き出しの事実だけが、言い訳もできずに転がっていた。


「……じゃあ、もう、これの出番もないね」


千歳はカウンターの上のエプロンに指先を触れた。その指先が、昼間のオフィスでの動揺を引きずったまま、かすかに震えている。


「訓練、終了になっちゃった」


そう言って無理に笑おうとした千歳の瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。

「男友達」と「幼馴染」というガラス細工の境界線が、大パニックの果てに完全に粉砕され、二人の間にじれったい沈黙が重くのしかかっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ