第3章 第2話:火曜日の夜、主を失ったキッチン
火曜日の21時半。
いつもと同じ時間、いつもと同じ部屋。しかし、部屋を包む空気は昨日までとは根底から異なっていた。
コンロの火は消え、換気扇の回る音だけが低く響いている。カウンターキッチンの上には、何も食材の載っていないまな板が、ひっそりと白い平らな面を晒していた。
ガチャリ、と静かにドアが開く音がした。
入ってきたのは千歳だった。
だが、その手にはいつも提げられていたスーパーのポリ袋も、食材を詰め込んだ紙袋もなかった。
彼女はいつも通り、ゆったりとした白のブラウスを着ていたが、その腰に、あの淡いピンク色のエプロンが巻かれることはなかった。
「……千歳」
「……うん」
千歳は靴を脱ぎ、リビングへ進むと、カウンターにぽつんと置かれたマイエプロンを見つめた。それを手に取ることもなく、ただじっと見つめている。その横顔は、昼間にオフィスの廊下で見せた完璧な「如月さん」の仮面でもなければ、夜の部屋で見せる生意気な幼馴染のそれとも違っていた。
「聞いたよ。お昼の、海外事業部の人たちの話」
千歳はぽつりと言った。その声は驚くほど小さく、いつもの張りのあるトーンはどこにもなかった。
「ああ。ビザの発給要件が変わったらしくてな。事実上の無期限延期……白紙撤回だ。今週末のフライトはキャンセルになった」
「そっか……。行かないんだ、ロンドン」
千歳はゆっくりと視線を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。その大きな瞳の奥には、赴任がなくなって安心したような色は微塵もなかった。あるのは、拠り所を完全に失った人間の、深い困惑と焦燥だけだった。
俺たちは気づいてしまったのだ。
ロンドン赴任という「巨大なタイムリミット」があったからこそ、俺たちは「他人のフリ」という寂しさに耐えられた。
「男友達の健康管理」という大義名分があったからこそ、千歳はエプロンを免罪符にして、毎晩この部屋に押しかけることができた。
だが、ロンドンに行かないのであれば、この「自炊訓練」は一体何のためのものなのか。
明日からのオフィスで、俺たちはどういう顔をしてすれ違えばいいのか。
大義名分という名の防壁を剥ぎ取られた俺たちの前には、ただ、「お互いを特別に想い合っている」という剥き出しの事実だけが、言い訳もできずに転がっていた。
「……じゃあ、もう、これの出番もないね」
千歳はカウンターの上のエプロンに指先を触れた。その指先が、昼間のオフィスでの動揺を引きずったまま、かすかに震えている。
「訓練、終了になっちゃった」
そう言って無理に笑おうとした千歳の瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。
「男友達」と「幼馴染」というガラス細工の境界線が、大パニックの果てに完全に粉砕され、二人の間にじれったい沈黙が重くのしかかっていった。




