第3章 第1話:火曜日のクラッシュ、綻びたタイムリミット
火曜日の14時。ついにその時は訪れた。
ロンドン出発を数日後に控え、俺のデスクの周りには引き継ぎを終えたファイルや私物の段ボールが整然と積まれていた。残された事務手続きはあと僅か。誰もが俺の「栄転」を疑わず、オフィスの空気はどこか遠い世界のもののように俺の肌を滑り落ちていく。
その時だった。フロアの入り口から、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「相馬さん! すみません、大至急これを確認していただけますか!?」
海外事業部の後輩が、血相を変えて俺のデスクに駆け込んできた。手渡されたのは、ロンドン支社から届いたばかりの一通の緊急英文ファクスと、人事通達の変更申請書だった。
『英国における就労ビザ発給要件の急激な厳格化、および現地法人の組織再編に伴う、駐在員受け入れ枠の一時凍結――』
最上段に並ぶ冷酷な文字列が、俺の目を射抜いた。
頭を殴られたような衝撃が走り、視界が急速に狭まっていく。
「……どういう、ことだ?」
「現地のレギュレーション変更に伴う、不可抗力による『赴任見合わせ』です……。上層部での緊急会議の結果、相馬さんの今回のロンドン赴任は、事実上【無期限の延期】、つまり白紙撤回となることが決定しました。これに伴い、今週末の渡航は中止。来週以降も、このまま本社の人事部にとどまっていただくことになります」
後輩の言葉が、オフィスの雑音の中にぽつんと浮き上がった。
白紙、撤回。
あんなに俺を追い詰め、俺たちの時間を残酷に削り取っていた砂時計が、一瞬にして粉々に砕け散った瞬間だった。
手元に残された、無意味になった航空券の控え。
俺の胸の奥を激しく乱していたロンドンへのカウントダウンは、あまりにも唐突に、そしてあっけなくその足を止めた。俺を襲ったのは、安堵ではなかった。激しい困惑と、それ以上に、ある一つの恐ろしい予感だった。
(赴任が、なくなった……? じゃあ、千歳は? 俺たちが守ってきた、あのじれったい『自炊訓練』の日々は、一体どうなるんだ?)
その時、フロアの喧騒の向こう側から、鋭い視線を感じてハッと顔を上げた。
十メートルほど離れた通路の境界線。
そこには、広報部の資料を胸に抱えたまま、完全に凍りついた千歳が立っていた。
いつもなら一寸の隙もない「広報のエース、如月さん」の仮面が、今、目に見えて剥がれ落ちようとしていた。彼女の大きな瞳は驚愕に見開かれ、血の気が引いたように唇がかすかに震えている。
海外事業部の後輩が俺に放った「赴任は見合わせ、白紙撤回」という声を、彼女もまた、その耳で確実に捉えていたのだ。
周囲の社員たちが「え!? 相馬さんのロンドン行き、中止になったの!?」とざわつき始める中、俺と千歳の視線だけが、静止した空間の中でまっすぐに絡み合っていた。
他人のフリをするビジネス敬語も、完璧に演じられていたオフィスの鉄のルールも、その瞬間に完全に崩壊した。
千歳は俺を見つめたまま、ただ一言も発することができず、その場に立ち尽くしている。
ロンドンへ行くという大義名分を失った俺と、男友達の健康管理というエプロンの大義名分を奪われた千歳。
運命の突然のいたずらによって、俺たちが必死に維持してきたモラトリアムの防壁は、音を立てて足元から瓦解し始めていた。




