第2章 第24話:木曜日の焦燥、手元に残る砂時計
木曜日の15時。オフィスを包む空気は、週末を前にした独特の気だるさと忙しさが同居していた。
俺は人事部の自席で、ロンドン支社への着任日に関する最終旅程表をクリアファイルに収めていた。
内示が出てから始まった怒涛の日々も、いよいよ大詰めだ。デスクの上が完全に片付き、パソコンの横に置かれた私物用の小さな段ボール箱を見るたびに、この場所での自分の時間が残りわずかであることを突きつけられる。
「――如月さん、先ほど修正していただいたプレスリリースの海外配信スケジュール、これで確定で進めます」
「承知いたしました。すぐに配信設定を完了させます」
広報部のブースから、千歳の凛とした声が響いていた。
一寸の隙もないネイビーのジャケットに、知的なハーフアップ。彼女は完璧な「広報のエース」の仮面を被り、同僚たちと淡々と打ち合わせをこなしている。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
オフィスを行き交う社員たちの雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯する。
千歳はいつも通り、表情を一ミリも崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
徹底された他人のフリ。だが、その徹底ぶりこそが、彼女の胸の内の動揺を雄弁に物語っているように思えてならなかった。
その夜の21時半。
昼間の冷徹なオフィスライクが嘘のように、俺の部屋のキッチンでは、香ばしい醤油とみりんの甘い香りが立ち上っていた。
「いい、蓮? 今夜は生姜焼きの最終おさらいよ! ロンドンに行ってから、現地のスタッフにあんたのベチャベチャした生姜焼きを見られたら、幼馴染の私のプライドが許さないんだからね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンの中の豚肉を真剣な表情で見つめながら言った。
会社のジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスの袖を肘の上までパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前に廊下ですれ違った「如月さん」とは完全に別人だった。
「分かったよ。タレを入れる前に、余分な油はペーパーでしっかり拭き取っただろ」
「フン、口だけは一人前なんだから。ほら、次は火加減を見てて!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンを揺らす千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
彼女の細い指先が、フライパンの柄を白くなるほど強く握りしめているのを、俺の目は見逃さなかった。タレが煮詰まるジジジという音が、やけに大きく部屋に響く。
素真に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の自炊訓練」という大義名分を盾にして、必死に俺との時間を繋ぎ止めようとしている。
その不器用な境界線が、もう長くは持たないことを予感しながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えたモラトリアムを演じ続けるしかなかった。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立ての生姜焼きをテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいった。




