第2章 第25話:金曜日の熱帯、煮詰まったスパイス
金曜日の21時半。
一週間の仕事が終わり、オフィスの呪縛から解き放たれた街が週末の歓楽に沸く中、俺の部屋のキッチンは、どこか息苦しいほどの熱気と芳醇なスパイスの香りに満たされていた。
「――はい、今日のメニューはチキンカレーの総仕上げよ! ロンドンに行ったらスパイスの調達だけは困らないんだから、ベースのスパイス配分くらいは今夜で完璧に脳裏に焼き付けなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、木べらを手に持って鍋の底を力強くかき混ぜていた。
オフィスのネイビーのジャケットをクローゼットの端に追いやり、白ブラウスの袖を肘の上までパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前に廊下ですれ違った冷徹な「広報のエース、如月さん」とは完全に別人だった。
「カレーか。作り置きの定番だな。これならロンドンでも確実に自炊のローテーションに入るよ」
「でしょ? 感謝しなさいよね。ほら蓮、玉ねぎがちゃんと極限まで飴色になってるか、あんたのそのバカな目でしっかり確認して!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、鍋から立ち上る湯気の向こう側、木べらを握る千歳の細い指先が、かすかに、だけど確実に震えているのを俺の目は見逃さなかった。
出発まで、あと数日。いよいよ片手で数えられるところまで迫ったタイムリミットが、目に見えない砂時計のように、二人の間の空間を冷酷に削り取っていく。
(……あいつ、本当に今にも張り裂けそうなんじゃないか)
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして、俺を突き放すような事務的な一瞥をくれるくせに、夜になればエプロンという名の防壁を免罪符にして、俺の部屋を家庭的な料理の香りで支配しようとする。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、パニックの果てに捻り出した「自炊訓練」という名の不器用な大義名分。
その圧倒的なギャップと、彼女が頑なに維持しようとしている「男友達」というガラス細工の境界線の脆さに、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
今すぐその手を掴んで、すべての仮面を剥ぎ取ってしまいたいという衝動が喉の奥まで競り上がってくる。だが、それをすれば、彼女が必死に守り抜こうとしているこの最後のモラトリアムすら壊してしまうことになる。
「ほら、お皿にご飯盛って! ルーをかけるのは私がやるから!」
「……ああ、分かったよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、カレーを綺麗に盛り付けた。
言えない本心をスパイスの香りの向こう側に隠し、お互いに「気楽な関係」を演じ続けようと必死になっている。しかし、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい防壁を、内側から確実に、そして冷酷に狂わせ始めていた。




